温泉津は温泉のある港町で、近世には石見(大森)銀山の外港として繁栄していた。 周防の大内氏の保護により、石見銀山が開発されると、温泉津などの近在の諸港が繁栄していった。やがて諸国の大名が銀山を手に入れようと争奪戦を繰り広げた。享禄4年(1531)に大内氏から銀山を奪った小笠原氏から、慶長5年(1600)の徳川幕府が直轄支配するまでの70年間に9回の交代が見られる。 温泉津村は江戸時代を通じて幕府直轄領大森代官支配地であった。 石見銀山は大久保長安が初代の銀山奉行となってから飛躍的に銀の産出量が増大した。慶長10年(1605)大久保長安は銀山とともに温泉津も地銭を免じて、銀山外港として銀の積出と銀山への物資搬入港として温泉津を整備したので、温泉津の町は大いに発展し、北前船も寄港してたいへん賑わった。しかしその後、銀山から備後尾道まで銀山街道による陸送に変更され、さらに江戸時代中期以降銀の産出量が落ち込み、温泉津の繁栄も後退した。 また、温泉地として北前船や地船の乗員の保養・休養地ともなり遊女のいる歓楽街もあった。宝永4年(1707)の問屋仲間申合書によると、同年の廻船問屋は17軒だったが、延享2年(1745)には40軒と大幅に増加している。天保9年(1838)「御巡見様御案内記」には360軒・1,724人とある。 今町並は狭い谷あいに沿った温泉地の地域と港を中心とした商業地の地域に分かれている。 どちらの町並も明治に入ってから建てられた家屋が多く、新しく建てられた家が少ないので、伝統的な建物が残る温泉町・湯治場として全国的にも珍しい。新しく建てられた近代的なホテルが無いだけでも、昔ながらの湯治場温泉というイメージにピッタリの温泉であり、木造3階建ての温泉旅館も残っている。町並を歩いていると、赤瓦をあまり意識しなかったが、龍御前神社の裏山に登って町並の俯瞰を眺めると赤瓦の町並であることが認識できる。何時までもこのままの状態で残したい温泉地であった。 島根県の歴史散歩 山川出版社 島根県の歴史散歩編集委員会 1995年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 島根県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 中国地方のまち並み 中国新聞社 日本建築学会中国支部 1999年 |
温泉津の町並 |
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