奥出雲地方は古代から砂鉄生産で知られている。鉄穴流し(かんなながし)という方法で、銑鉄を造りだしていた。原始的溶融炉が耐火粘土による鈩(たたら)炉を築造する進歩した方法を創始するのは、文永年間(1264〜75)の吉田の菅谷であったとされている。 吉田の田部氏は寛正元年(1460)、一族集まって鈩(たたら)製鉄を始めたという。そして大正12年廃業するまで連綿と家業である製鉄業を営み、巨富を築き上げた。 吉田村は江戸時代は松江藩領のまま幕末を向かえている。製鉄産業は中国地方における一大産業であって、松江藩は鉄を重要な財源としたから、田部氏をはじめとする鉄師は松江藩の統制と手厚い保護を受けることとなった。 山林の所有と森林の伐採を認められ、製鉄に必要な木炭の供給源として広大な山林を所有していた。 吉田村は寛文4年(1664)「飯石郡万差出帳」によると家数207・人数894で、田部家経営の鈩(たたら)製鉄が行われていて、鈩(たたら)2ヶ所、大鍛冶屋2ヶ所、鉄穴(かんな)場3ヶ所、鉄山9ヶ所、大炭釜45ヶ所があり、村全体が製鉄業と何らかの係わりをもって生活していた。 吉田町は慶長13年(1608)吉田村から町分を独立させて吉田町としたもので、鈩(たたら)師田部家の居宅があり、田部家の鈩(たたら)製鉄を支えるためにできた町、企業城下町である。 菅谷高殿鈩(たたら)のある山内は工場群、その南側の川沿いの吉田町が工場群を支える商業の中心地として発展した。寛文4年(1664)吉田町には家数65・人数308であった。 田部氏の経営する鈩(たたら)の中で、最も大きく長く続いたのは菅谷にある菅谷鈩(たたら)である。その創設は天和元年(1681)であり、大正12年まで途中に中休みもあったが、営々と操業を続けたのである。最盛期には山内と称する約5,000uの一画には、高殿を中心に大銅場・元小屋・内倉・鉄倉・米倉が建ち並び、山内作業者の住む長屋が30〜40棟も建っていた。 鈩(たたら)製鉄業は明治以降、洋鉄の輸入と八幡製鉄所開業の影響をうけて衰退の一途をたどった。只、日清・日露の両戦争の時期には鉄の需要が増加し、明治40年には年間815,000kgと田部家最大の製鉄量を記した。 慶応元年(1865)田部家より出火して吉田町内の大半が焼失した。 大正12年菅谷鈩は廃止され、吉田村の製鉄業の歴史は終わった。現在は国の重要有形民俗資料の指定を受け、菅谷高殿が保存されている。 菅谷高殿鈩(たたら)のある山内には、2000人以上の労務者が製鉄に従事し,生活していたのだが、今では20軒に満たない集落になっていた。 山内(さんない)とは炉のある鈩(たたら)高殿を中心に、付属建物のほか、製鉄に従事する人々の住居を含んだ鉱山集落のことをいう。 吉田町の町並の西端に田部家の土蔵群があり、土蔵の中の道が田部家への導入路となっている。この田部家を支えた吉田町が今でも吉田村の政治・経済の中心地となっている。 吉田村は国の重要有形民俗資料の指定を受けた菅谷高殿鈩(たたら)を中心に、山内生活伝承館・鉄の歴史博物館などを造り、町おこしに力を注いでおられるのが伝わってきた。 町並は切り妻造りの平入り、宿場町のような感じである。中2階建て、背の低い2階建ての町並で石州瓦の赤い屋根ばかりと思っていたが、半数は黒い瓦であったのは意外に感じた 島根県の歴史散歩 山川出版社 島根県の歴史散歩編集委員会 1995年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 島根県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 中国地方のまち並み 中国新聞社 日本建築学会中国支部 1999年 |
菅谷高殿鈩(たたら) |
菅谷たたら山内(高殿) |
菅谷たたら山内の村下屋敷 (村下とは鈩(たたら)の技師長) |
菅谷たたら山内 |
吉田町の町並 |
吉田町の町並 |
吉田町の町並 |
吉田町の町並 |
吉田町の町並 |
吉田町の田部家土蔵群 |