安来は西廻り航路の北前船の寄港地、山陰道が通り出雲有数の交通の要衝、松江藩の経済活動の要として栄えていた町である。 江戸期の安来村は加茂村・今村を安来村といい、町場を形成しているところを安来町と云っていた。文久2年(1861)の安来町を含む安来村の戸数は901・人数2,906であった。 安来町は町場を形成していて、検地帳に代るものとして地銭帳が作成され、坪数に応じて地銭を徴収されていた。 安来町は江戸期は松江藩領で、能義郡一帯の産物商品流通の中心地としての性格と、松江藩の東の入口にあたり、政治的にも重要な位置を占めていた。 江戸幕府の制定した五街道には入っていなかったが、脇街道の山陰道が安来町を通っていて、海上交通では西廻りの北前船の寄港地として栄えた。安来港は伯太川で母里藩と、飯梨川で広瀬藩と通じ、安来・能義地方の蔵米の積出港であり、隠岐からの産物の陸揚げ港でもあった。また、中国山地沿いに発達したタタラ製鉄の積出港としても繁栄していた。 安来の町場は元禄11年(1698)の「能義郡安来町地銭御検地帳」によると家数240であり、町内は二日市・西小路・本町・東新町・西新町・井戸小路の六町に分けられていた。この中での二日市は市場とも記されていることから商業の中心的地域であったようで、現在の大市場・中市場という町名と関係があるようだ。 安来町は伯耆との国境でもあったので、制札場・番所・御茶屋が置かれていた。御茶屋は藩主の参勤交代のときに休憩したとことである。 火災はたびたび発生しているが、天保8年(1837)の火事では町の1/3は焼失したと伝えるので、当時はおよそ1,000戸はあったようだ。安来節にいう「安来千軒」というのも、江戸末期の安来の姿だろう。 今、古い町並みは西小路・大市場・中市場などに展開している。町家の殆どは切り妻造り平入りで中2階建てもしくは2階建ての家屋であるが、中には大型の商家の建物は、平入りと妻入りの建物をドッキングさせた丁字型の撞木造りも散見できる。この大型の撞木造りの商家の建物は全て中2階建てであったので、江戸時代に建てられたものだろう。 JR安来駅裏が全て日立金属安来工場である。こんなところにどうしてと思ったが、タタラ製鉄からの製鋼業も幾多の変遷を経て今日の日立金属安来工場になったようである。 島根県の歴史散歩 山川出版社 島根県の歴史散歩編集委員会 1995年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 島根県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 中国地方の町並み 中国新聞社 日本建築学会中国支部 1999年 |
安来町の町並 |
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