柳井市は山口県の東南部の瀬戸内の町だ。室町時代の明応9年(1500)に、将軍家足利義稙が山口の大内氏を頼って下向するとき、楊井で泊まっている。すでにこの頃の楊井津は将軍家に宿所を提供することが可能な港町であったことがうかがえる。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後、毛利氏は防長二州(山口県)に移され、一族の吉川広家が岩国に入り、柳井は吉川氏の領地となる。そして岩国城下町経営が始まるが、このとき楊井津商人の移住を命じ、岩国城下町に柳井町を設けている。楊井津商人の富みの蓄積は、領主吉川氏の御納戸と称されるほどであった。楊井が柳井となるのは、寛永2年(1625)頃のようだ。 江戸時代初期には今の古市や金屋の辺りで市が立っていた。寛文期(1660代)に入ると、大規模な干拓(古開作)が完成し、同時に柳井津商人の水運確保と、耕地拡張のため今の柳井川筋がつくられた。この川の北側(左岸)が柳井津町(商人の町)で、柳井川の南側(右岸)が古開作村(農民の村)となった。 古開作に続いて貞享3年(1686)には、中開作が完成。これによって柳井津は飛躍的に地域が拡大され、新興商業地域として活気を呈してきた。 享保12年(1727)に柳井村には12の町名があり、家数は1120軒・人数6722人であった。元禄7年(1694)には中開作の北側部分に東西に一直線に新市ができた。 柳井川の北側(左岸)、現在の緑町・中野町・愛宕町のあたりは、かって柳井川の一部で船着場であり、商家の蔵屋敷が建ち並んでいた。柳井川を溯ってきた船はこの船着場(ガンギ)で荷物を積み下ろし、蔵屋敷へ運び込まれた。この船着場(左岸)一帯はたいへん活気を帯びていたが、享和年間(1801〜4)に柳井川左岸が埋め立てられ、それぞれ緑町・中野町・愛宕町となった。 江戸中期以降の商業の中心は古市・金屋地区で、柳井津は九州と本州を結ぶ港町になり、柳井商人は九州を含む広範囲な地区で商業活動を繰り広げた。 柳井商人は「柳井縞」と呼ぶ木綿や油、和蝋燭、金物、刃物類などの商品を近隣諸藩や瀬戸内海の島々、さらに九州・大坂方面に売りさばくなどして、活発な商業活動を展開し、豪壮な町家群を生み落としてきた。 古市・金屋の町並みは、東西に通じる街路の両側に短冊型の敷地が並んでいる。街路の北側に町並みができ、南側は海運が発達した後に、計画的に割り当てられた浜蔵などのための敷地であったようだ。また、南側の敷地は奥行きが深く、50m以上あり中には100mを越えるものもある。海面の埋め立てによって敷地を増やしたものだ。古市・金屋地区の町並みは江戸時代の景観をよく遺していて、妻入り、白漆喰塗り込めの大壁造り、本瓦葺が大きな特徴である。 この町並みが今のように整ったのは、おそらく明和5年(1768)の大火以後のことだろう。柳井の妻入りの建築様式は、その構造からして蔵の形式が発達して住宅になったものと考えられ、このような形式をもつ町並みは他に例がないといわれている。 町家の多くは2階建で、入り母屋造りが殆どだ。妻入り白漆喰の妻側2階の壁には2つずつ窓が開き、その上に白壁の三角の破風があり、大壁造りの重厚な町家を引き立てていて袖壁を設けている家も多い。 公開されている町家は、国の重要文化財の国森家住宅とむろやの園の小田家で、国森家住宅は明和5年(1768)の大火の後に建てられたもので、重要文化財の主屋のみ公開されていた。入母屋造り妻入り、本瓦葺き、一階は蔀戸が3列あり、2階は白漆喰壁の塗り込めで、鉄格子の入った窓が二つあり、小さな袖壁も備わっていた。むろやの園小田家は300年以前から油商を営んでいた商人の家で商家博物館となっていた。 柳井のまちなみ 柳井市教育委員会生涯学習課 平成9年 山口県の歴史散歩 山川出版社 山口県の歴史散歩編集委員会 1993年 歴史の町並みを歩く 保育社 高士宗明 平成6年 歴史の町並み事典 東京堂出版 吉田桂二 1995年 町並み・家並み事典 東京堂出版 吉田桂二 平成9年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1988年 |
写真は全部 金屋の町並み |