大畠は山口県の南東部、柳井市街の東約8kmに位置している。大畠の瀬戸を隔てて大島(屋代島)がある。万葉集にも「名に負ふ鳴門の渦潮」と詠まれるとおり、古くからの瀬戸内航路の難所として知られていた。 対岸の大島(屋代島)への渡り口として早くから開けていて、瀬戸内航路の要地でもあった。 江戸期を通じて岩国藩領。 大畠村は海が急な流れであり、背後は山の急斜面で、耕地は海岸沿いに小さくあったのみである。適当な干拓地もなく、山の急斜面に段々畑の形を取らざるを得なかった。よって穀物の生産額が低く、そのために農業以外の生産によって生計を補充しなければならなかった。木綿・莚・藍・縄などの副収入や賃労働などであった。 漁業については、日本海流が豊予海峡から、対馬海流が下関海峡から流れ込み、大畠地域の地先で合流するので、魚の種類も多かった。しかし大島(屋代島)の久賀浦や安下庄浦の様な立浦と違い、規模が小さかったが、漁業が村の経済を支えていたようだ。 大畠浦は寛文8年(1668)の「古村記」に家数58軒、「享保増補村記」で43軒とあり、内39軒が舸子(水夫)屋敷に指定されている。享保9年(1724)当時帆船41艘を所有し、漁業は年中行われているとある。 今、町並みを歩くと、漁村としても港町としても大きく発展しなかったのに、町並みの各所に伝統的な様式で建てられた大型の建物が見られるのはどうしてだろう。物資の集散地の在郷町だった様な印象を受ける町並みが展開している。町並みを構成している建物は中2階建て、切り妻造り平入り・妻入りの混在した町並みで、白漆喰塗込め四角い窓を備えて、九州北部から山口県の海岸地方に多い建築様式の建物だった。 大型家屋が多く残っているのは、大島(屋代島)への渡し口があった影響で、江戸末期から明治期にかけて商品経済の発展に伴ってこの地で商業活動が活発に行われた証だと思える。しかし、その後の発展が望めず、今は白漆喰が剥げ落ちた商家の建物が散見でき、この町の運命を予見するようで、心が痛む町並み探訪だった。でも大型で伝統的な様式の建物が連続して残っていたのには、よくぞ残っていてくれたと感謝感謝の訪問でもあった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1988 山口県の地名 平凡社 下中邦彦 昭和55年 |
大畠の町並み |
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