山口が中世都市として発展したのは、大内氏の城下町建設に始まる。それまでの山口は純然たる寒村であった。大内弘世が大内村から山口に居館を移したのは延文5年(1360)頃と推定される。京に倣った町並みの基盤を造り「小京都」とか「西の京」とよばれる基礎を造った。 山内弘世が山口に居館を移して急速に発展した。中でも城下町としては東の小田原と共に、戦国期都市の代表的なものとして繁栄した。大内氏の居館の大内御殿の西側の南北の通りを竪小路、館の南側の東西の通りを大殿大路と称し、竪小路の南端をほぼ東西に通る石州街道と交わらせ、石州街道沿いの西方を大町、東方を円政寺町、延長上の南方を太刀売町と称して町人を集住させた。そして中心的な町人町は大町筋で、後の大市・中市などである。 しかし、大内義隆は天文20年(1551)、陶晴賢の謀反によって、山口を敗走し・自刃して山内家は滅亡した。弘治元年(1555)には厳島において陶晴賢が毛利元就に敗れ、山口はその後も戦火により町の大半は焼失したが、毛利氏の保護を受けて、なお相当繁栄していた。 関ヶ原の戦い後、毛利氏は防長2国に減封され、幕府の指示で山口に築城が出来ず、萩に退いたため、山口は決定的な打撃を受け、以後江戸時代の大部分は、宇野令村として位置付けられ、藩の御茶屋を置く山間の町としての歴史をたどることとなった。 慶長15年(1610)の検地帳では「宇野令」として記され、町屋敷2,702・百姓屋敷243という特殊な性格の町となっていた。 萩から三田尻(現防府市)続く御成道(萩往還)が町中を通り、竪小路には宿駅があり、中市と道場門前には本陣があった。町中を通る街道は大内氏の時代には六間幅であったが、江戸時代には四間幅に狭められている。 しかし大内氏時代から続く由緒ある有力商人の多くは山口に残り、町の大年寄役を勤めていて、相当な繁栄があったようで、天保12年(1841)頃に成立した「防長風土注進案」では山口町が初めて宇野令から独立して記載されている。それによると大内氏時代の町方を中心にほぼその町並みが残されているようで、「注進案」に家数1,544・人数5,710・空家103とある。 文久3年(1863)から萩の藩庁を出て山口町に移ったり、又萩に帰ったりを繰り返したが、慶応2年(1866)からは山口藩庁を再建して政治の中心は山口に移った。 今回訪ねた竪小路は、山内城下町時代から山口の中心、南北の大通で、石州街道と交わる南端の大市町・その西側の中市町にかけて、山口を代表する大店の商店が並んでいたところで、中世に続いて江戸時代にも繁栄していた地区である。 江戸時代には大店の商家が並んでいた名残は色濃く残るが、今は伝統的な様式の家屋が点在するのみになっている。それでも中2階建てで軒の揃った家並みが残っていた。切り妻造り平入り、中2階建て、黒色桟瓦葺き屋根が多く、赤褐色屋根の家屋は少数だった。 町並みの中に伝統的な様式の大型家屋が点在する光景は、江戸期・明治期はもっとこの大型家屋が多かったのだろうと想像でき、古の山口町を彷彿させる。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1988 山口県の地名 平凡社 下中邦彦 昭和55年 |
下竪小路の町並み |
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