山口市阿知須の町並み 
阿知須
地図


阿知須の町並み
 山口市阿知須は山口市の最南部で山口湾に東面する港町。江戸時代を通じて萩藩領であった。江戸時代は農業と共に漁業および廻船業が営まれて繁栄していた。
漁船数は寛文7年(1667)に棚付漁船5艘・丸木漁船9艘、天保末年(1843頃)には漁船60艘を数えた。
「防長風土注進案」によると阿知須浦の家数525・人数2,364・漁船60・廻船60とある。家数525のうち農民212・職人20・商人293とある。阿知須では村内の約3割が漁業・廻船乗・舸子働き(水夫)に従事していた。漁場は阿知須湾内を主としていて、鯛は巡見上使の通行に際して阿知須浦で用意され、天保9年(1838)には120尾の鯛を差し出している
廻船業は江戸初期からはじまり、寛文7年(1667)には250石積から40石積の廻船16艘、天保12年(1841)に400石積から20石積の廻船60艘を数えた。廻船経営には賃積と買積があったが、ここでは廻船経営については本題と異なるので割愛する。
明治・大正期も農業を主体とした集落で、漁業も活発に行われていたが、廻船業はには大きな変化が現れた。米穀の売買は江戸期以来の廻船業者の取り扱い物資であったが、主要都市間の電報が開通して、米相場が即日伝えられるようになり、価格差を利用しての売買ができなくなり、廻船経営が困難になった。次いで登場したのが石炭で、日露戦争後の石炭の需要も急増して廻船業は潤ったが、これも一時的で、都会にある石炭商が直接買い入れをしたために、廻船業者は単なる運送業者になり、船を手放す者も多くなった。
今、阿知須の集落には「居蔵造」と言われる土蔵造りの店蔵が数多く残っている。
阿知須は延享2年(1745)250戸、文化5年(1808)134戸を焼く大火に見舞われている。この当時は茅葺き屋根の家であったが、大火の経験から廻船業を営む豪商の人達が、白漆喰塗込めで土蔵造りの「居蔵造」の家屋を造り出した。江戸時代後期から建ち始めた「居蔵造」は明治期を経て大正初期には、白漆喰塗込めの白壁が連続する町並みが形成された。「居蔵造」も時代と共に中2階建てから2階建てへと変化していき、今に残る町並みが形成された。
今、町並みを歩くと、「居蔵造」の白漆喰の白壁とナマコ壁のある光景が強烈に町並みを印象付ける。一度訪ねたら忘れることが無い程印象深い町並みだ。
そんな中で、旧廻船業者の中川家の家屋が山口市により整備されて公開されていた。
町並み指数 50
参考文献    
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1988
  山口県の地名  平凡社  下中邦彦  昭和55年


阿知須の町並み

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