木次町木次(きすきと読む)は島根県の宍道湖西南端から南に約15km程の所、斐伊川中流域右岸に位置している。雲南3郡の接点に位置しており、山陰沿岸部と奥出雲地域を結ぶ中継点として発達した町である。 江戸期は松江藩領であった。訪ねたのは江戸時代には木次町と呼ばれた中でも八日市・三日市の集落である。 斐伊川は上流で古くから砂鉄採集による鉄穴流しが行われたため川床が上昇し、暴れ川となっていた。その水害を防ぐため寛永12年(1635)に松江藩主京極若狭守が大きな堤防を築いたのが、その後何度も補強されて、現在の木次さくら土手(若狭土手)となり1,300本の桜が植えられている。 木次町は江戸期に木次村の一部が市街を形成して木次町として分れたもの。「雲陽誌」にはその様子を「町長さ六町余あり、八日市三日市という。毎月市を立て商売するもの近里遠村より群集す。四月馬駒犢牛の類、争いてもって交易す、往来蟻然たり」と記す。 江戸初期に紙市が起こったと云われ、ここに集まる紙は周辺農村で生産されたもので、当時の出雲国内の紙市では最も盛況であった。 慶安2年(1649)に松江藩により出雲国唯一の紙座が開設され、それに伴って人馬の往来が盛んになった。紙市は3の日と8の日の毎月6回開かれ、雲南3郡および出雲各地からの紙が集まった。そして八日市・三日市の地名の起源になった。 天保10年(1839)頃から、奥出雲産の鉄を材料とした木次千歯の製造が始まり、脱穀能力がよかったので、製紙と並んで江戸期から明治前半期にかけて木次町の重要産業となり、大阪・長崎・新潟・中国地方各地に出荷していた。 また、木次町は斐伊川船運の拠点としても発達し、仁多郡との交易が頻繁であり、木次町の船数は天保年間(1830〜44)では77とある。慶応年間(1865〜68)の家数540・人数2,339とある。 今、古い町並みは旧東城往来に沿って展開している。かって賑わっていたこの地域の行政・商業・文化の中心地、在郷町の面影が色濃く残る町並みである。先ず旧街道の道幅が広いのに驚かされる。大きな大火の記録も無いので、斐伊川の氾濫に苦しめられた副産物的な要素があるのかも知れないと勝手な想像。 町並みの殆どは平入り・2階建て・切妻造りの家屋であるが、妻入りや平屋建て、赤瓦・黒瓦・トタン葺きが混じる町並みを形成していた。町並みの規模の割には現役の旅館が多く目についたのは、かっての賑わい余韻でしょう。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 島根県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
木次町木次の町並 |
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