雲南市加茂町加茂中は島根県東部、宍道湖の南西端から南約8km程の所に位置し、赤川による水害多発地帯であった。 江戸時代は松江藩領。加茂中村は明和年間(1764〜72)人数は876人であったが、「郡中誌」では家数383・人数1,602・牛5・馬12・50石積船3艘とある。村内には農業を主とする中村分と町分に分れていた。文化6年(1809)には家数340・人数1,500余り。そのうち中村分は70戸余り、町分は270戸余りであった。 加茂中村の人数が増すようになったのは、寛文年間(1661〜73)以降で、新田開発で発展したこと、木綿市が開かれて商業が発達したことが上げられる。木綿市にくる仲買人の宿泊地をしても賑わい、市の日には周辺の村から産物を出し、それらの村人は塩・灯油・塩干魚・布などの必需品を買った。木綿を染める紺屋も多くいた。この木綿市は嘉永年間(1848〜54)に最盛期を迎えたが、明治に入り機械紡績に押されて衰退した。また、この地では人参栽培が盛んに行われた。 加茂中村には安芸への道、出雲街道や大東方面への道も通っていたので、荷物の取次を藩に何回も願い出たが許可されなかった。赤川には高瀬舟があり、川の横渡しの役や、物資の運送には使われていた。 加茂中村の町分ではしばしば大火が発生している。貞享4年(1687)・享保2年(1717)・寛延元年(1748)・宝暦4年(1754)・宝暦7年(1757)等があり、その度に多大な損失を負っている。 今、古い町並みは旧出雲街道や大東方面への道に沿って展開している。出雲から広島に向かう旧出雲街道は街道の幅が狭いのに、大東方面に向かう街道は幅が広い。最近拡張されたものなら、古い伝統的な様式で建てられた家屋が片側にしか無いが、加茂町加茂中の場合は街道の両側にあるから、この道路拡張も最近では無いようだ。 古い町並みを構成している古い様式の建物は大型の商家建物で、妻入りであったり平入りであったりする。切妻造りの建物で漆喰塗込めの虫籠窓を備えた家屋が多い。これらの大型建物はどの家も綺麗に整備されている。保存のために補助金が出ているようでも無いので、維持管理されているのは大変な苦労だろうと思う。 一般庶民の家屋と大型の豪商の家屋と二極化されたような町並みと思って訪ねていました。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 島根県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
加茂町加茂中の町並 |
加茂町加茂中の町並 |
加茂町加茂中の町並 |
加茂町加茂中の町並 |
加茂町加茂中の町並 |
加茂町加茂中の町並 |
加茂町加茂中の旧出雲街道の町並み |
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加茂町加茂中の町並 |
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