下関市長府の町並 
侍町・惣社町・宮の内町
地図


古江小路の菅家長屋門

  壇ノ浦で平家滅亡の後、守護職がおかれるなど長府の町は、長門国の政治の中心として栄えてきた。 時代が下がって、中国一円を支配していた毛利輝元が、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで、西軍に加担して敗れ、周防・長門2カ国(防長)に減封。本藩は萩に置かれ、長府支藩に毛利元就の四男穂田元清の子 毛利秀元が、大内氏の家臣である内藤隆春がいた串崎城を再建、雄山城と改称して長府支藩三万六千石の城下町を整備し、
整った道路網をを今に残した。 こうして長府の近世城下町としての歴史が始まった。
串崎城は現在の長府宮崎町の海に突き出た所に築かれたが、元和元年(1615)の一国一城令により城郭が取り壊されてしまったが、その一角(現豊浦高校)に藩主の居館が置かれ、城下町の整備が行われた。
江戸中期の絵図で見ると、藩主の館の前から壇具川にかけての一帯に武家屋敷が立ち並び、今も東侍町の名を残している。
普通の城下町の武家屋敷と異なるのは、壇具川を下流に下るほど、上級武家屋敷になることとである。これは
藩主の居館が海近くにあったためだが、城下町としてはかなり変則的な構成になっていて、中世の町並をそのまま利用したためとも云われている。
壇具川と印内川に挟まれた山陽道の海側の街道筋には、町屋敷が集められ、南之町・中浜町・土居之内町・中之町・金屋町と印内川を越えた東側に外町として印内町があった。
山陽道の山側には寺社が集められていた。
江戸後期の絵図になると、壇具川下流の海寄りの地にも武家屋敷が集中するようになり、東は印内を越えて八幡辺りまで武家屋敷が延び、山側も功山寺や覚苑寺の下まで広がっていた。
天明4年(1784)の記録では、金屋町・中之町・土居之内町・中浜町・南之町・印内町と惣社町合わせて360軒、1479人が記載されている。
また、寛政4年(1792)の幕府への報告によると、領内人口61,926人のうち、長府には町家695軒・人口1736人がいて、職人・僧侶などを加えると3734人が生活していた。
古江小路、横枕小路などの小路には菅家、太田家、弘中家、内田家などの武家屋敷や長屋が散在する。土塀の町長府である。町並みというよりは土塀並みである。 道路の両側に練り塀が続く。
古江小路に菅家長屋門(市文化財)がある。菅家は長府藩祖毛利秀元に招かれて、代々の藩医を勤めた家柄で、40m近く連なる練り塀と武者窓に古い歴史がにじみ、格式の高い重厚な造りの長屋門は廻りを圧倒していて城下町ムード萬点である。旧藩主毛利邸も長い土塀で囲まれた中に表門と建物がある。明治12年に長府毛利邸として建てられたもので、明治24年から大正8年まで毛利家の本邸だった建物。 旧野々村家の表門は長府に残されている薬医門や棟門の中では、規模も大きく上級藩士の屋敷としての赴きがみられる。
町並指数 60
参考文献
  山口県の歴史散歩  山川出版社  山口県の歴史散歩編纂委員会  1993年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1988年
  山陽・山陰小さな町小さな旅  山と渓谷社  山と渓谷社大阪支社  1999年
  歴史の町並み再発見  葦書房  読売新聞西部本社  1993年

毛利邸東側の小路

古江小路の町並

古江小路の菅家長屋門

古江小路の町並

宮の内町の町並

古江小路の町並
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