津和野の町並み 
殿町・本町・
地図


本町の町並み
  津和野は島根県の西端、山口県との県境に位置する。
鎌倉幕府の命により、弘安5年(1282)この地に入った能登の豪族吉見頼行は、本拠の津和野城(三本松城)の築城を永仁3年(1295)からはじめ、実に30年という歳月を注いで、その子頼直の正中元年(1325)になって一大山城を完成させた。津和野を城下集落として、政治・経済の中核としての体制を整え、そして14代約319年間に亙って吉見氏がこの地を治めた。その戦国争乱の世にあって、よく諸強豪の間で、外は臨機策謀よく、内は領民を安堵して郷土開発の基礎をつちかった。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いには西軍に味方し、戦い敗れて津和野の領地を捨てて長門の萩に退転した。戦いの後は坂崎直盛が入府し、わずか16年の治世の間に城の整備(織部丸築城)、近世的城下町形成(武家屋敷・町屋敷の町割り)、町内用水路の完成、産業振興等、後世に残した業績は偉大なものがある。
しかし、有名な「千姫事件」で自刃し、元和3年(1617)因幡の鹿野(現在の鳥取県鹿野町)城主であった亀井政矩が、藩主として津和野に入府し、以後明治維新までの約250年にわたって津和野藩四万参千石のこの地を治め、城下町として栄えた。
嘉永4年(1851)の人数は家中5012人・町方2038人であった。
亀井政矩には兄弟がなく、藩政の相談相手として多胡真清を呼び寄せ、中老の列に加えた。真清は藩主を助け、産業の振興にその経済的才腕をふるって、藩財政を豊かなものにした。今も町内に点在して残っている段々状の田畑は、主水畑(多胡主水の名をとってつけた名)と呼んでいるが、当時の多胡氏の産業振興のあとを偲ばせている。
また製紙原料の楮の増産を図り、製紙技術をひろく領内に普及し、紙の大量生産をはかった。この紙を後に藩の専売制とし、売買を藩が一手に行って莫大な収入を得る道を開いた。このため四万三千石の津和野藩は、優に十五万石という経済実力を持つといわれるほどだった。
11代藩主の茲監は幕末の慶応2年(1866)第2回防長征討令が発せられた時、幕府の命に従うか、長州藩に味方するか重大な岐路にたたされた。茲監はよくその中立を保って津和野を戦禍から守るなど、その明敏な達見はみごとであった。
津和野は今に戦国時代から江戸初期の坂崎直盛の近代城下町の伝統を伝えている。津和野の古い町並みは、JR津和野駅の東南にあたる殿町を中心にして本町、祇園町、魚町、久保町、稲成町などへ広がっている。祇園町から本町へかけて造り酒屋が三軒軒を並べている。どの家も伝統的な商家のたたずまいで、それぞれ杉玉を上げていて、華泉、魁龍、初陣と地酒の清酒を醸造し販売していた。町並みは半数以上の家屋が伝統的な家の佇まいで、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
津和野の伝統的な民家は切り妻造り、中二階建又は二階建、平入りで石州瓦(桟瓦)の赤瓦葺、二階は白漆喰の袖壁があり、虫籠窓か格子窓が一般的のようだ。
殿町では津和野川から引いた疎水が町中を流れ、かっての藩校「養老館」前では鯉が悠然と泳いでいる。津和野藩校養老館(県史跡)は八代目藩主 亀井矩賢が先代矩貞の遺志を受け継ぎ創設したもので、天明6年(1786)に校舎が下中島堀内の空き地に落成したが、嘉永6年(1853)の大火で焼失し、安政2年(1855)に殿町の現在の地に再建された。
殿町には多胡家老門(県文化財)と大岡家老門が残っている。多胡家老門は昭和28年県道が開通して門と本邸を切ってしまった。大岡家老門の内側には現在津和野町役場があった。
町並み指数 60
参考文献     
  島根県の歴史散歩  山川出版社  島根県の歴史散歩編集委員会  1995年
  津和野  津和野歴史シリーズ刊行会  池田 潔  他  平成8年
  津和野藩  津和野歴史シリーズ刊行会  沖本常吉  平成6年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和54

造り酒屋

商家

大庄屋屋敷 

町並み

商家

商家(和紙)
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