島根県出雲地方の築地松のある風景は、まさしくこの地方独特の散居村景観で全国に誇れる貴重な資産である。 江戸初期までは暴れ川の斐伊川は武志辺りから西に流れて日本海に注いでいたが、寛永16年(1639)の大洪水により、武志辺りから東に折れて宍道湖に注ぐようになった。 そして下流にドンドンと土砂を運んだので、松江藩はこの沖積地の造成をしていった。開墾が進むと山裾に住んでいた農民は、自然堤防などの微高地に住居を構えるようになった。だがチョットした大雨でも、直ぐ水が押し寄せるため、住居の周囲に築地(土手)を造り、それの補強に樹木を植えたのである。その樹木はこの地方独特の厳しい北西の季節風を防ぐにも役立った。 江戸中期から斐伊川の堤防工事がすすみ、洪水の心配が少なくなると、防水機能としての築地の必要はなくなり、防風機能のみになった。南側と東側の築地や樹木が無くなり、西側と北側のみになった。 松ははじめは地主層の屋敷だけだったらしいが、黒松が屏風のように整然と植えられた姿は風格の漂うもので、一般の農家にとっては憧れだったらしい。その松が殆どの農家に植えられるようになったのは明治維新前後のことらしい。 美しく刈り込んだ築地松風景は、150年の歴史をもった大切な歴史遺産である。 だが現代では松くい虫の被害による松枯れ。松の落葉はかって燃料だったが今は必要が無い。防風林の機能もサッシュの出現でその必要性が低下した。風通しを良くするため剪定する莫大な費用と職人の数が少なくなった等などのため、この景観を保つのは大変な費用と努力と地域住民の意識が必要になる。 斐川町・平田市・出雲市などの関係市町村は懸命に築地松を残そうと努力されているのであるが、いつまでこの景観が保てるかは、地域住民の残そうという意識にかかっているようだ。 島根県の歴史散歩 山川出版社 島根県の歴史散歩編集委員会 1995年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 島根県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
斐川町原鹿の築地松 |
斐川町原鹿の築地松 |
斐川町原鹿の築地松 |
斐川町原鹿の築地松 |
出雲市荒茅町の築地松 |
出雲市矢野町の築地松 |
斐川町併川の築地松 |
斐川町併川の築地松 |
斐川町直江の築地松 |
斐川町原鹿の築地松 |