広島県福山市街の南に歴史の町、鞆がある。地理的には瀬戸内海の中央に位置し、紀伊水道と豊後水道・関門海峡の中間にあって、潮流の分岐・合流点となり、古くから航行する船の潮待・風待の良港であった。 室町時代後半になると、大内氏、尼子氏を倒して中国地方の覇者となった毛利氏も、鞆の浦を重要視し、鞆城を築いている。室町幕府最後の将軍足利義昭は、天正元年(1573)信長によって京都を追放され、室町幕府は滅亡する。足利義昭は幕府の再興を、信長に対立していた毛利氏に託して、鞆の浦に来たが 天正10年(1582)、本能寺の変で信長は倒れ、やがて秀吉の時代になり、足利義昭の室町幕府再興の夢は破れた。 関ヶ原の戦い後、安芸・備後の領主として福島正則が福山に入部してくる。正則は城山に支城として鞆城を再築、三重の天守閣を備えた本格的な城郭をつくり、鞆港に突出す大可島を埋め立てて陸続きにし、大崎玄番を城代とした。しかし元和元年(1615)の一国一城令により、天守は三原へ移築され、正則が元和5年(1619)に改易になって、譜代大名の水野勝成が福山城主になり、ここには鞆町奉行所が置かれた。このように初めは福山藩領だったが、元禄11年(1698)幕府領となり、同13年から再び福山藩領になっている。 水野氏時代の初期には城下町的色彩が残っていたが、次第に港町の性格が強まり、寛文12年(1672)河村瑞軒による西廻り航路の整備以後は、北前船や九州船が鞆の津に寄港し、鞆商業は著しい発展を示した。 また、鞆は海駅としても重要な位置を占めていた。特に朝鮮通信使の寄港に伴う接待は、藩の総力をあげて行われた。計12回の来日の往き帰りすべて鞆の津に寄港している。正使・副使・従事の三使の宿泊所には、慣例として福禅寺が当てられた。 正徳元年(1711)の従事李邦彦は、福禅寺の客殿対潮楼からの眺めを絶賛し「日東第一形勝」の書を書き残している。その他、参勤交代の西国大名やオランダ使節、琉球使節なども鞆の津に来航し、活気ある町であった。こうして港町、商業都市として発展した鞆の津は、港湾施設も整備され、瀬戸内の要港として発展していった。幕末期の備後郡村誌によれば、戸数1327軒、人数4634人。明治21年では戸数1344軒、人数4975人であった。 港沿いに堀をめぐらした石畳の一角に鞆名産保命酒醸造元旧中村家(現太田家)がある。江戸中期から明治初期にかけて、保命酒などの各種の酒類醸造で栄えた商家で、「太田家住宅」や「太田家住宅朝宗亭」として国の重要文化財に指定されている。 商家の町並みも、福山市鞆支所から「鞆の津の商家」(市重文)までの約200m位の間の両側に、保命酒醸造所を中心にして展開していた。福禅寺の対潮楼からの眺望は絶景で目前の仙酔島をはじめとした、瀬戸内の島々の大パノラマが見事に展開していた。 鞆の浦の自然と歴史 福山市鞆の浦歴史民俗資料館 1998年 広島県の歴史散歩 山川出版社 広島県歴史散歩研究会 1992年 山陽・山陰小さな町小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 1999年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 |
町並み |
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対仙酔楼 |
いろは丸展示館 |
鞆の津の商家 |
保命酒商家街 |