本地は見事な石州瓦の町並である。石州街道(石見浜田路)に沿った町並で、江戸時代は広島藩領であった。享保12年(1727)山県郡村々諸色覚書によると村の広さは東西1里13町余・南北1里27町余、戸数313・人数1,640、牛129、馬132であった。町場の長さは1町35間、幅2間で戸数34であった。 「国郡志書出帳」によると戸数360・人数1,713。馬95・牛218。町場は戸数48で石見浜田路の宿駅であった。浜田藩の参勤交代の道でもあった石見浜田路にそって町並みが形成され、本陣や御茶屋が置かれていた。農間余業は石州の鉄荷物を可部に送る駄賃稼ぎなどをしていた。 今 町並は赤褐色の石州瓦の町並で、見事なものである。街道筋といっても伝統的な切り妻造り平入りの商家の建物は少なが、街道筋としての町並は保たれていた。そして石州瓦の町並としては何処にも負けない立派なものであった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 |
本地の町並 |
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