知夫村多沢の町並 
多沢
地図


多沢の民家

 知夫(ちぶ)村は隠岐諸島の南部、知夫里島とその周辺の島を村域とし、江戸時代に於いても知夫村または知夫里村として、これらの島全体で一村であった。
知夫村の江戸期は知夫里村と呼ばれ、幕府領松江藩預かり地。貞亨4年(1687)〜享保5年(1720)は幕府領大森代官所支配地。
貞亨5年(1688)「増補隠州記」では村高856石余、家数133・人数851、牛163・馬101、大船1・手安船20・トモド船32。海を生業の場とする人々が多かったと見られる。
元禄9年(1696)の船宿定帳には問屋門屋権七の扱う島前船があり、当時船宿が置かれていたことが知られる。享和元年(1801)には嘉右衛門船が煎りナマコや干しアワビを赤間関三問屋に津出ししている。
「郡村誌」によると、物産は大豆・小豆のほか海産物で、家数375戸のうち農業のみは55戸、農業と漁業の兼業は274戸にのぼり、商業を営む28戸のほか大工・鍛冶がいた。船は200石積1艘を含め荷船8艘、漁船は295艘。主な漁獲物はスルメ・ナマコ・アワビで俵物として清国にも輸出していた。
明治期に入っても、海に囲まれた所にありながら、島の漁業は余り振るわなかった。折角水揚げしても市場である本土に送る流通経路が確保出来なかったことや、冷蔵施設が無く塩蔵か乾燥以外に保存の方法が無かったためである。従って漁業と云っても、自給自足の域を出なかった訳である。
農業は水田が僅かしかなく、畑地が殆どで牧畑と云われる放牧場であり、半農半漁の村であった。
今回訪ねたのは知夫村郡であるが、近くに集落を見つけ多沢集落も訪ねた。江戸期から一島一村であり、行政上多沢という地名は無い。また多沢集落だけの資料もないが、多沢集落は立派に存在している。小さな入り江の奥まった所にある多沢集落は、当然漁業集落と思いたいが、どう見ても漁業集落に見えない。普通一般にある農業集落の感じである。でも立派な漁港があり漁船も多く係留されている。まあ、漁村らしからぬ農漁村と云う所だろう。

《補》 牧畑とは牛や馬を山の斜面に放牧すると、等高線的に草を食べるので自然と道ができ、幾重にもなって階段状になる。放牧した後に作物を植え、土が痩せるとまた放牧する。このような農業の仕方を牧畑という。
町並み指数 30
参考文献     
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和54年
  島根県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1995年
  

多沢の町並

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