忠海は竹原市の最東端に位置し、竹原や三原より沖に突き出た形状のため、江戸時代に西回り航路が開発されてからは、諸国廻船が潮繋ぎに出入りし、交易の盛んな土地であった。 江戸時代の初めは広島藩領であったが、寛永9年(1632)三次支藩領となり、享保5年(1720)から再び広島藩領となり明治を迎えた。 寛永9年(1632)三次支藩の成立に伴いその領地となった忠海村は、同支藩の鉄・麻・紙・煙草などの移出港として位置づけられて、お屋敷・お船蔵が建てられ、奉行・町役人が置かれたとあるので「町」となっていたと推察できる。 「芸藩通志」によると家数792・人数4,189。「国郡志書出帳」によると家数は本村832・二窓浦(本村の西)125とあり、うち社家1・医者4・職人20・遊女屋茶屋5・漁業7。人数4,075とある。浦分が港として栄えただけに船数も多く本村51・二窓浦107と記されている。 三次支藩廃絶後も広島藩の港となって栄え、地内にはお蔵所・口屋十歩所・お炭蔵などの役所が建てられた。酒造家3軒、万問屋1軒、魚問屋1軒、遊女屋・茶屋5軒、職人20軒などがあり、町家は317軒、浮過313軒で町の半数はその日銭稼ぎの労働者であった。 忠海の交易先で、最も多いのは讃岐で次いで周防・伊予などであったが、上方や九州、東は尾張、北は越後・佐渡・出羽まで広範囲であった。 港の常停泊船数は70隻、一日の出入り船数は90隻であったという。 明治に入って、11年に豊田郡役所が設置され郡の中心と位置づけられた。そして呉憲兵分隊・芸予重砲隊・芸予要塞司令部が置かれ、砲台が築造されるなど、中部瀬戸内海地域の軍事基地として重要な位置を占めたが、港町としての地位は急速に衰えていった。 今古い町並みは忠海2丁目の広い範囲に点在している。不思議なことに海岸線に平行な道に沿って古い町並みが展開しているのは、町の発達の過程を物語っているのだろう。 中2階建て・2階建ての建物は切妻造りで、虫籠窓を残した家屋も多くみられる。殆どの建物は明治に入ってから建てられたもののようだ。 そして伝統的な建物が広い範囲に点在しているのでなく、比較的かたまって連続して残っているのが、この町の古い町並みとしての価値をあげていると思う。 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 |
忠海中町2丁目の町並 |
忠海中町2丁目の町並 |
忠海中町2丁目の町並 |
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忠海中町2丁目の町並 |
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