大社町の町並み 
杵築東・杵築西・杵築南・杵築北
地図


杵築南の町並
 大社町は縁結びの神様として有名な出雲大社のある町である。出雲大社と云うようになったのは明治4年からで、それまでは杵築大社とよばれていた。
江戸時代には越峠・市場・中村・大土地・赤塚・仮宮が杵築大社領六ヶ村で、杵築大社(出雲大社)の門前町として栄え町場を形成していた。その中でも越峠村・市場村は東側の参詣道の中心にあり特に賑わっていた。
これらは杵築2,000軒と俗称され、越峠村・市場村・中村は北島国造家の支配下に属して俗に「越中市」といい北支配といわれた。、大土地村・仮宮村・赤塚村は千家国造家の支配下に属して俗に「宮赤土」といわれ西支配であった。
慶長14年(1609)御造営図には杵築の門前町の景観が描かれる。それによると、北島国造館の手前に御本社が描かれ、境内西隣には千家国造館があり、御本社東側の上宮佐草家から南へ延びる参道と、千家国造館前を経て南西に延び、越峠・市場の町並に続く参道があった。その参道の西側には北から仮宮・中村・大土地の町並が描かれている。当時赤沢付近は荒地として描かれている。
天保12年(1841)の杵築惣絵図では、これら二つの参道は両側町として描かれ、堀川端まで町並となっている。そして参道に交差して東西に走る数本の通りにも両側町が描かれ大きな町場になっている様子が描かれている。
杵築の江戸期は大社参詣の人々で賑わうとともに、杵築大社の富くじ興行も年2回(3月・8月)行われ大変賑わいを見せた。この富くじ興行に期間には町中の家が宿屋となり、小さい家でも何十人、少し広い家では何百人もの宿客があり、遠くは尾張・近江・江戸からも富くじの入札に加わった。
商家・宿屋は年2回のこの興行で一年の収入になったそうだが、明治元年の太政官布告により富くじが禁止され、大社は勿論、町民の収入も激減し市中は一変して衰退し、凶作も重なり杵築の米騒動へ繋がった。
今町並は出雲大社の東側北島国造家を代表とする社家町、西側に千家国造家等の社家町と、出雲大社の南側とその南西側に商家や民家の町並が展開する。
大多数の伝統的な家屋は、中2階建て切り妻造りの平入りの商家の建物であるが、所々に塀に囲まれた広大な敷地を持つ家も見られ、大社に直接関係した家柄の屋敷と思われる。
杵築南の町並で、通りに対して斜めに構えた家の連なったところがある。元々防衛用に造られたもので城下町では多くあり宿場町でも見られるが、門前町で見られるのは珍しいと思う。
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参考文献     
  島根県の歴史散歩  山川出版社  島根県の歴史散歩編集委員会  1995年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和54年
  島根県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1995年
  中国地方のまち並み  中国新聞社  日本建築学会中国支部  1999年
  

杵築東の町並

杵築南の町並

杵築西の町並

杵築南の町並

杵築南の町並
この辺り通りに対して斜めに構えた家の連続である

杵築南の町並
この辺り通りに対して斜めに構えた家の連続である

杵築西の町並(手銭記念館)

杵築北の町並
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