鵜峠は出雲大社の真裏に位置し、細長い地形をなした谷間に集落がある。中世には出雲大社領7浦の一つに数えられた港町である。 江戸期ははじめ松江藩領であったが、宝暦2年(1752)松江藩より寄進され、杵築大社(出雲大社)領となる。慶長5年(1600)の家数18であり、「雲陽大数録」には鵜峠浦とあるが「高なし」とあり、人数は寛政3年(1791)に282人。天保9年(1838)には397であったが、天保郷帳には村名に記載がない。 明治政府の「皇国地誌」によると戸数101・人数452。200〜500石船3、200石以下船47。 産物は薪炭5,000貫・油木実280石・ワカメ10万枚・アラメ1,000貫・テングサ150貫・イワシ1,000籠・アジ1,000籠・サバ1,200籠・イカ2,000貫・タイ1,000貫・アワビ300貫・スズキ200貫を杵築に送っている。 職業構成は漁業60・商業13・雑業20で漁業主体の集落であった。 鵜峠鉱山は竜山(312m)の東麓にあり、慶応4年(1868)から開発され、明治10年代が鉱山の最盛期で、3,000人の従業員がいたと言う。 集落は小さな湾から狭い谷間に展開する。西隣の鷺浦同様、切り妻造りの平入りの家が多い。 谷間に細い道があり、それに沿っての平入りの家屋だから、自然と妻側が海になる。 壁は当然潮風に強い板張りか漆喰であって、屋根瓦は桟瓦で石州の赤瓦と黒瓦が混じっていた。 鷺浦は活気ある漁港と感じたが、ここは眠ったような集落で、訪ねたときも一人の老人に遭っただけで、過疎化の問題が大きい様だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 島根県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
鵜峠の町並 |
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鵜峠の町 |