鷺浦は出雲大社の真裏に位置し、天然の良港を持つ集落である。中世には出雲大社領7浦の一つに数えられた港町である。 正保国絵図に鷺浦と書かれ、元禄10年(1697)出雲国郷帳によると高9石余は大社領で、寛文4年(1664)には本田高9石余。「雲陽大数録」では湊と注記され無高。天保郷帳には高9石余松江藩領とある。人数は寛政3年(1791)に590人、天保9年(1838)には679人であった。 江戸時代には北前船の入港などで賑わったというが、後背地を持たないので、大きな商業取引は無かったようだ。しかし船主の屋敷が集落に多く残っているところを見ると、漁業とともに船乗り稼業も多かったようだ。 明治政府の「皇国地誌」によると戸数163・人数725。200〜300石船2、200石以下船7、50石以下漁船108。一年の出入り船600。産物は木の実225石・薪6,500貫・ワカメ2万枚・アラメ1,200貫・アジ1,600貫・イワシ530俵・アワビ60貫・サザエ1,580個とある。 職業構成は漁業80・商業30・雑50で鷺浦村では漁業で生計を立てていた様子が判る。 鷺浦銅山があり、慶応元年(1865)に松江藩の命令で本格的な採掘を行っている。明治5年に精錬高116トンに達したといわれ、明治33年には採鉱高803トン・精錬高69トンになっていたが、昭和10年代初頭に閉山した。 集落は小さな湾の縁に沿って細い道と民家が建ち並ぶ。切り妻造りの平入りの民家が多く、壁は板張りと白漆喰で、屋根は石州瓦の赤瓦が多い。この集落も海岸が埋め立てられて道路になっているが、本来の道は集落の中を路地のように続いている。集落の中には大きな商家の建物も混じり、屋号を揚げている家もあり、かっての繁栄した当時を彷彿とさせる。 地元の方に聞くと、この家もこの家も船主の家だったと説明してくれた。普通の漁港の集落の町並よりも、この集落は大きな間口を構えた家が多く、江戸末期から明治にかけて繁栄していた様子が伺える。 中国地方のまち並み 中国新聞社 日本建築学会中国支部 1999年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 島根県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
鷺浦の町並 |
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