周南市櫛ヶ浜の町並み 
櫛ヶ浜
地図


櫛ヶ浜の町並み

 櫛ヶ浜は徳山湾東側の奥の浦で古くからの漁村集落である。
江戸時代は萩藩領であるが、元和3年〜7年(1621)は徳山藩領であった。寛永3年(1626)の熊野帳では久米村の枝村串浜と記され、「防長地下上申」でも久米村の内に含まれ、家数123・人数436とある。しかし別に寛保元年(1741)分の「防長地下上申」には櫛ヶ浜由来があり、これより櫛ヶ浜と申すとある。同じ地下上申には村内には74艘の船があり、廻船が2艘・イサバ37艘・漁船45艘とあり、漁の内訳まで記載され、九州五島まで鰯漁に出航していたとある。
「防長風土注進案」では櫛ヶ浜浦として独立して記され家数336・人数1,431・船数53とあり、家数の内酒屋1・大工2・舟大工6・鍛冶4等などで、浦内の様子を「東西通り抜町長サ凡三丁余、町筋左右裏家共に家数三百三拾余軒、……… 勿論漁人町の儀に付上之分住居は無之、凡二歩方瓦葺、八歩方茅葺之事」と記していて、町の長さ3丁余りで漁師町であって上分の住宅は無く下分の住宅だけであった。瓦葺の家が2割で茅葺き屋根が8割であったとある。
今、この町を歩くと、漁師町であった筈だが、どう見ても大型の家屋が眼に付き、港町・在郷町だった様に思われ、漁師町とは思えない光景が展開する。江戸時代から明治にかけても漁師町だったが廻船も見られたので、明治になるともっと廻船業や問屋等が増えていたのかもしれない。
入母屋造りで、平入り・妻入りの大型家屋が点在する。白漆喰塗込めの窓を備え、千本格子を残した家もあり、九州北部から山口県の瀬戸内に多い建築様式の建物だった。
日本海側に多かった赤褐色の瓦屋根の家は、伝統的な様式の家屋には見られなかった。何よりも漁師町を訪ねた筈が漁師町の光景じゃない変った町並み探訪だった。
町並み指数 40
参考文献    
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1988
  山口県の地名  平凡社  下中邦彦  昭和55年

櫛ヶ浜の町並み

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