周南市土井2丁目の町並 
土井2丁目・下上
地図


下上の町並

 周南市土井2丁目は昭和57年に名付けられた町名で、江戸時代・明治時代の富田村から富田町そして富田からの変遷で付けられた名前である。
富田村は山陽道沿のい大村で、四熊ガ岳の南麓に開けた平野部を占め、東縁に沿って富田川が南流し、西は福川村、南は徳山湾に面し、仙島や黒髪島の北半分も村域に含まれていた。南部の海岸部は近世・近代にわたり干拓や埋め立てが行われた。
富田村の江戸期ははじめ萩藩領、元和7年(1621)からは徳山藩領。村高は慶長15年(1610)検地帳5,272石余、元文5年(1740)6,158石余、「天保郷帳」6,804石余、「旧高旧領」7,364石余。
「元和御打渡牃」によると、百姓屋敷524・市屋敷93・浦屋敷131とあり、「寛永御打渡牃」では屋敷470・町屋敷113・浦屋敷76とある。
このように江戸初期の富田は市町と浦方を抱える大村であった。市町は古市町・新町・平野町で構成されていた。
古市町は富田村のほぼ中央南、海に面して開かれた湊町で、古くは富田川の河口にできた川の州上にできたとも言われている。海に面した古市町は古くから廻船業が盛んで、多くの物資が出港した。
新町は古市町の北西方に位置する山陽道沿いの町。古くから開けた古市町に対して、街道沿いに開けた新しい町で、江戸中期に急発展した町。
平野町は古くから山陽道の要所として栄えたらしいが、中世は海上交通が盛んで一時衰退していたが、近世になるとこの付近で瓦製造がはじまり、その燃料や製品の積み出しの湊として発展した。
富田三町の規模は、元和8年(1622)古市町が市屋敷86、寛保元年(1741)町の長さ東西3町20間、家数78・人数432。新町は元和8年(1622)市屋敷93、寛保元年(1741)6町32間、家数129・人数513。平野町は元和元年(1622)地方屋敷22、寛保8年(1741)2町5間、家数89・人数371。
さて土井・下上だが、富田村の新町で分岐して鹿野などの北に向かう道筋に沿った富田村の集落である。文政6年(1823)に創業した造り酒屋さんを中心として古い町並が展開している。大型妻入りの伝統的な様式の家屋が並ぶ光景は見ごたえある町並である。南の埋め立て地に進出した工場群などで潤っているのだろう。どの家も白漆喰で綺麗に修復整備された見事な家並が続く。洋風の医院の建物も見られる町並に、満足した町並探訪だった
町並み指数 50
参考文献    
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1988年
  山口県の地名  平凡社  下中邦彦  昭和54年 


土井2丁目の町並

土井2丁目の町並

土井2丁目の町並

土井2丁目の町並

土井2丁目の町並

土井2丁目の町並

下上の町並

下上の町並

下上の町並

下上の町並

土井2丁目の町並

土井2丁目の旧日下医院
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