庄原市高野町新市は広島県の最北端、中国山地に位置し、約5km程北にある王貫峠を越えると島根県だ。 この高野町辺りの江戸時代は、慶長5年(1600)毛利氏に代わった福島氏の支配下に入り、元和5年(1619)からは浅野氏の支配になった。寛永9年(1632)に三次藩成立に伴い三次藩領となったが、享保5年(1720)の同藩廃絶により再び広島藩領となる。三次藩領時代に湯川村が上湯川村と下湯川村に分れ、高野山村も南村・新市村・和南原村……と9村に分れた。そしてその11村は高野山組と総称されていた。 新市村は広島藩北端の宿駅で、新市駅は山陰・山陽を結ぶ出雲路(阿井越)の備後国最北端の宿駅で伝馬7匹が常置さていた。南は宮内駅を経て三次・庄原と、東は比和駅を経て庄原・西城と結び、北は王貫峠を越えて出雲国阿井駅から松江・大社へ通じ、出雲の綿花の大阪送りの経路の一つであった。宝暦年間(1751〜64)の新市駅は長さ5町54間の町並みであった。 宝暦3年(1753)の大差出帳では家数223・人数849、牛45・馬43とあるが、「芸備通志」では家数115・人数615、牛115・馬124と、家数・人数が減少しているのに、牛馬が増えている。それは当地方は砂鉄を原料とする鈩生産地帯であったためと思われる。 享保年間(1716〜36)高野山組に鉄穴場が36ヶ所あり、幕末の慶応元年(1865)には46ヶ所の鉄穴場と5ヶ所の鈩場があった。 新市村は古くからの行政・文化・経済の中心地であった。明治21年の家数262・人数1,250とある。明治に入ってからもこの地の行政・経済の中心地として経過している。 国道432号線が旧出雲路の南側から東側を通り、古い町並みはそのまま残った。旧出雲路の両側に古い町並みが展開する。この地は中国地方でありながら豪雪地帯だから、トタン屋根の家もかなり目立つ。この新市は標高が550m程ある寒冷地である。訪ねたのは3月初めの暖かい日が続く時で雪が溶けて無かったが、訪ねた2日後に大雪が降ったそうで80cmほど積もったそうだ。年間の平均気温が11.2℃。8月の最高気温の平均が23.8℃。2月の最低気温の平均がマイナス3.8℃という寒冷地だ。 このような寒冷地であるためか、漆喰塗込めの家屋はお寺以外は見かけなかったようだ。旧街道に面して建てられた商家の建物の町並みだが、殆どは仕舞た屋になっている。 切妻造り平入りで、中2階建て2階建ての板貼りの家屋が続く。軒の深い中2階建ての家でもガラス窓になっているが、手摺が付いたお茶屋風の家屋も多くみられ、宿場町の名残なんだろうと思える町並みであった。 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 |
高野町新市の町並 |
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