比和は広島県の北東部、中国山脈の背梁部で、庄原市街から北に約13km程に位置する。江の川の支流の西城川の支流、比和川の上流域に位置し、比和川が集落の北から南に流れている。 江戸時代は初め広島藩領、寛永9年(1632)三次藩領となり、享保5年(1720)から再び広島藩領。 「芸備通志」によると家数137・人数457とある。比和に享保年間(1716〜36)鉄穴が22ヶ所もあり、この辺りでは森脇村の36ヶ所に次いで多く、幕末にはさらに増加した。こうした鉄山業の隆盛を背景に出雲路の宿場が置かれ、町場が形成され砂鉄・木炭・銑などの貨物駄送で賑わっていた。「芸備通志」には比和駅 伝馬定数なしとあるが、近くの宿駅の伝馬が6〜7程度であるので、比和でも同程度だったと思われる。 鉄山業に関連する駄送の盛行により牛馬の飼育が盛んで、文政期(1818〜30)には家数137に対して牛127・馬88とある(芸備通志)。 寛永10年(1633)山陽筋に初めて幕府巡見使が派遣され、広島藩は街道・宿駅の整備を行っている。 このように鉄山業による経済の発展、貨物駄送で比和の町が栄えた、また出雲地方特産の木綿が文政期(1818〜30)には出雲路を通って山陽・大坂へ出荷されており、比和でも木綿荷物宿を経営するものまで現れた。 明治21年の家数240・人数979とあり、比和駅を中心として市街地が形成されていた。 国道432号線が比和川の反対側を通ったため、町並みは昔のまま残った。切妻造り平入り2階建ての木造建築が連なる。袖壁を備えた家屋も多く、赤褐色の瓦屋根の家も多く混じる光景は、古い町並みの商店街であるが全く活気がない。建物は商家形式・商店形式であるが殆どの家が仕舞た屋になっていて、ガラス戸にカーテンが引かれひっそりしている。 千本格子が設置されていただろうが、今では取り除かれてガラス戸になっている。明治以降の建物で、大正から昭和初期の建物が多いと思われた。 まあ、軽自動車で15分も走れば庄原市街に入るので、この寂れようは回復の見込みがないようだ。せめてこの町並みが少しでも長くこのまま残ってほしいと思う。 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 |
比和町比和の町並 |
比和町比和の町並 |
比和町比和の町並 |
比和町比和の町並 |
比和町比和の町並 |
比和町比和の町並 |
比和町比和の町並 |
比和町比和の町並 |
比和町比和の町並 |
比和町比和の町並 |