庄原市東城町の町並み 
東城
地図


東城(旧新町)の町並
 広島県東北端のこの地方は寒冷地であり、耕地に恵まれなかったが、製鉄業の条件に適したため、東城は「くろがねどころ東城」と云われ鉄の集散地であった。
東城町は江戸時代を通じて広島藩領であった。慶長5年(1600)に広島に入封した福島正則は、家老長尾隼人を東城に配し、その後元和5年(1619)に浅野長晟が入封してからも家老の亀田高綱を東城に配しが、寛永18年(1641)からは家老浅野孫左衛門高英が配され以後幕末まで代々世襲した。そのときに川西村の内に発展した市街部が分離して東城町が成立した。
家臣団は東城家中と呼ばれ、町の西側にあったが廃城になった五品嶽城の東麓に設けられた浅野孫左衛門屋敷前に居住した。家臣団の町並は南北に連なり舘町といわれた。そして町人町はその西側で東城川との間に作られ、本町通と呼ばれた裏筋一帯は川舟の発着場としても賑わい何時の頃からか浜栄町とも呼ばれていた。
この地は砂鉄と木炭が豊富で小鉄(こがね)7里に木炭(すみ)3里という炉製鉄の条件に適し、東城は備後国北部の鉄の集散地として栄えた。鉄問屋は馬背で備中の吹屋(成羽町)や川之瀬(新見市)に運んだり、筏や川舟で成羽(成羽町)に運び、そこで積み替えて玉島から高松や大坂に運んでいた。
芸藩通志(文政12年(1829)完成)によれば東城町の戸数328・人数1,081とあり、町の広さは東西2町余・南北5町余とある。同志によると東城町は宿駅であったが「伝馬定数なし」とあり、他の街道宿駅と異なり利用者が少ないので、その時々に人馬を雇ったという。幕府の巡見使が訪ねたときには、100人前後の供揃は当地の豪商の家に分宿し、藩主が訪ねたときには豪商の上梶屋を本陣と定めている。
天明年間(1781〜89)の大火で市街の大半を焼き、当時は藁葺きであった家が、以後瓦葺きとなり市街の景観が全くかわってしまったという。
明治42年の戸数1,000(市街地550)・人数4,390。産物は酒と醤油・米・麦などであった。
現在も旧街道筋一帯に伝統的な建築様式の商家の建物が点在する。特に旧本町と旧新町の境にある枡形より南側には伝統的な商家の建物が連なり見ごたえのある古い町並景観を呈していた。
伝統的な家屋は平入り・切り妻造りの中2階建てが多い町並であり、オレンジ色の石州瓦が多い広島県にあって、黒い瓦葺きの建物が多かったのは不思議に思えた。 
町並み指数 50
参考文献     
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年
  広島県の地名  平凡社  下中邦彦   1982年

東城(旧新町)の町並

東城(旧新町)の町並

東城(旧新町)の町並

東城(旧新町)の町並

東城(旧新町)の町並

東城(旧新町)の町並

東城(旧本町)の町並

東城(旧本町)の町並

東城町(旧本町)の町並
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