庄原市三日市は県北部で、日本海に注ぐ江の川の支流西城川の河岸段丘に位置する。 三日市村は中央を南西から北東に向けて通る備中新見への道と、三日市から北に向う川北小路に沿って出来た市場町である。既に中世には集落があったようで延文5年(1360)には「いちはらの新三日いち」との記載がある。市はまず川北小路から発生した模様で、胡社が残り商業地であったことが伺える。 三日市村は江戸時代はじめは広島藩領。寛永9年(1632)三次藩領、享保5年(1720)から再び広島藩領となる。慶長5年(1600)広島に入封した福島正則は三次と東城に支城を設け重臣を配したが、庄原には特別な機関を置かなかった。芸藩通志(文政12年(1829)完成)によれば戸数69・人数290。村の広さは東西6町余、南北10町であった。江戸後期には庄原村と隔てる戸郷川近くから祇園社付近まで家並みが続いていた模様で市場町として栄えていた。 江戸後期には毎月4の日に塩市が立っており、石見・出雲・府中・上下等から商人が集まり、茣蓙(ござ)・菅笠(すげがさ)・薪・麻などが売買された。隣村の庄原では毎月9の日に市が立ち、三日市と商圏を巡って争いが絶えなかった。 昭和29年庄原市が誕生し本町が県北東部の行政・経済の中心地として発展するに伴い、三日市は商業地としての役目が終わったのである。そして昭和53年にバイパスが開通したために古い町並がそのまま残ったのである。 古い町並は約500m程に亘って続き、西に向かって緩やかな坂道で、緩やかに湾曲している。道路幅は約7mほどあり、道路の北側に古い町並が連なる。南側には古い家屋が少ないし連続していない。どうしてだろう。自動車の発達に相応してバイパスが造られる前に、南側の道路が拡張されたのだろうか。 連続した北側の町並は平入りの2階建て又は中2階建て、切り妻造り袖壁を備えた商家の建物で、格子戸を残した家も多いが、広島地方に多い赤い石州瓦の家が見当たらなかった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 |
三日市町の町並 |
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