周防大島町は山口県南東部で瀬戸内海に浮かぶ屋代島全ての町で、沖家室島は屋代島の僅か南に浮かぶ1平方kmにも満たない小さな島である。洲崎と本浦と二つの集落があり、昭和58年に屋代島と結ぶ沖家室大橋が完成し、本州と陸続きで往来できるようになった。 伊予河野氏に仕えていた石崎善兵衛が当地を開拓したといわれ、名を勘左衛門と改め当地の庄屋を勤めた。 沖家室島の江戸期は萩藩領、大島宰判に属す。村高は元文2年(1737)110石余、「注進案」124石余、「旧高旧領」125石余。元文2年(1737)の家数71・人数259、番所1、船倉1、狼煙場1、船数32とあり、うち漁船は25であった。海上交通の要衝であったので番所や狼煙場が設けられていた。 天保12年(1841)には畑37町余、家数448・人数2,394、船数174、うち廻船80石積2・漁船172とあり、沖家室島は漁業で生きる大きな漁村であった。また魚の仲買人が漁家の婦女に木綿織を勧め、生産品を引き取って大坂に出荷し、沖家室、地家室の木綿生産が上がっていったと言われている。 この地でサツマイモが作られるようになったのは明らかでないが、宝暦年間(1751〜64)頃にはかなり広く作られていたようで、天保12年(1841)頃には6万5千貫、木綿織については年産5,364反の木綿を織り出していた。 沖家室は明治9年には565戸と多くを数えたが、そのうち6割は漁民であった。一本釣りを主として網漁のように島に定住するのではなく魚を追って移動した。主な漁場は豊後水道であったが、瀬戸内海も漁場としていて、盆と正月には帰ってきた。はじめは2〜3人乗りの小さな船であったが、後には6〜7人乗りの大きな船で、馬関組・博多組など10ばかりの組を作り、五島列島や対馬方面まで行った。行く先々の問屋へ魚を卸して、盆と正月には島へ帰ってきた。 明治24年には家数678・人数3,022を数えたが、底引網漁業による漁場の荒廃は、一本釣りを主とする沖家室の漁民にとって大きな打撃を与え、次第に漁業を辞めるものが増え、海外に出稼ぎするものが多くなった。大正5年の島外在住者についてみると、ハワイ120を筆頭に朝鮮97・台湾63・バンクーバー11・北米4等々、国内では広島13・愛媛10・長崎13・福岡7・大阪7等々。大正8年の島外在外者はハワイ226・台湾111・朝鮮121などなど計481人を数えた。 そして今でも、一本釣り漁業と建網漁を主体とする漁村とのことであるが、過疎化が進み漁師町を歩いているのだが、誰一人も見かけない活気が感じられない漁村となっていた。 でも、漁師町特有の狭い路地道に軒を接して建つ民家の連なりに暖かさを見出す漁師町だった。中でも細い路地道に郵便局があったのには驚くと同時に、繁栄していた当時の証だと思いながらの探索だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1988年 山口県の地名 平凡社 下中邦彦 昭和54年 |
沖家室島洲崎集落の町並 |
沖家室島洲崎集落の町並 |
沖家室島洲崎集落の町並 |
沖家室島洲崎集落にある郵便局 |
沖家室島洲崎集落の町並 |
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沖家室島洲崎集落の町並 |
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沖家室島洲崎集落の町並 |
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