周防大島町小松は山口県南東部、屋代島の西端部、屋代川の河口に位置する。 元文2年(1737)には屋代村と合わせて屋代小松村と呼ばれていたが、天保12年(1841)までには屋代村から分村し、笠佐島を含む一村となって成立。 江戸期は萩藩領、大島宰判に属す。村高は元文2年(1737)は屋代小松村として5,093石余、「注進案」1,924石余、「旧高旧領」2,679石余。元文2年(1737)の家数576・人数2,259。天保12年(1841)家数761・人数3,163、牛88、船数69うち廻船38・漁船19・ご用達渡し船1・渡海小舟11。 小松に活気を与えたのは屋代川河口に築かれた塩田である。毛利の家臣粟屋帯刀就貞が小松沖干拓100町を元禄元年(1688)に拝領し、約30町の塩田を築造し、元禄8年(1695)から塩浜数21軒によって製塩が始められた。これに伴う小松開作港の新設や問屋屋敷の市街地整備も行われ、これが後の小松開作村となった地である。 小松は古くから本土との交通の要衝であった。近世には番所や渡守が置かれ、取り締まりが行われた。 この小松村では古くから市が立っていたが、柳井や大畠の市に押されて次第に衰退し、江戸後期には4月6日と21日、12月21日と年3回の市が立つのみになった。四月は農業用の鍬・鋤を中心に、12月は越年入用品の市であった。 小松塩田ではおおむね良質の塩が産出し、北陸地方を主な販路とし、北前船が多く入港した。 かって塩田だったところは、開発されて学校や養魚場として利用されている。古い町並はそれを取り囲む格好で展開していた。街道に沿って平入妻入りの2階建て家屋が連なる。特別古い伝統的な様式の家屋が残っている訳でもないが、塩田業に支えられた過去の蓄積で成り立っている町並だろうと思いながらの探訪だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1988年 山口県の地名 平凡社 下中邦彦 昭和54年 |
小松の町並 |
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