周防大島町は山口県南東部で瀬戸内海に浮かぶ島である。、瀬戸内に浮かぶ周防大島は小豆島に次いで大きい島である。正式名は屋代島であるが、一般には周防大島で通っている。地家室は周防大島の南端部に位置している。 江戸期は萩藩領、大島宰判に属し、地家室の村高は元文元年(1736)114石余、「注進案」211石余、元文元年(1736)の家数86・人数360。 当地は江戸期には帆船の船着場として賑わい、「下関より御手洗よりも船が着くのは地の家室」とうたわれていた。無給通林久右衛門の屋敷があり、その敷地内に御茶屋が置かれ藩主の参勤交代 や九州の諸大名の通行に当たり宿泊に供されていた。 天保12年(1841)には田畑89町7反余、家数317・人数1,722とあり、帆船の船着場で当時は女郎屋もあって賑わった。木綿織が盛んで、織上がった白木織は年8,190反あり大坂表で売りさばかれていた。サツマイモは食糧として年間96,376貫が作られた。 当村では瓦の生産が行われていたが、明治期になり瓦の需要が急増し、25軒で従業員は130名にものぼった。 明治12年で家数484・人数2,325とある。 この地方で多い島外出稼ぎについては、地家室村では比較的少なく、国内では明治20年〜32年 で合計32人。海外では明治18年〜20年の合計で48人であった。 明治中期になり養蚕業が農家の副業として有利として普及していった。そして最盛期は大正8年頃であるが、その後衰退していった。昭和に入り養蚕業に代わりミカン栽培が発展した。昭和45年頃には全国的に生産過剰になり、ミカン価格が暴落したが、高級品種への切り替えなどで、今でも山麓の段々畑に温州ミカンが栽培されている農村地帯である。 藩主が参勤交代時に宿泊する御茶屋もあったという港町だが、今はひっそりと静まり返った山村農家集落である。比較的活気があるのか、多くの人を見かけた。港を抱える集落だから漁業者も居られるだろうが、ミカン農家が多くを占めると思われる集落であった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1988年 山口県の地名 平凡社 下中邦彦 昭和54年 |
地家室の町並 |
地家室の町並 |
地家室の町並 |
地家室の町並 |
地家室の町並 |
地家室の町並 |