下関市菊川町田部は下関市街の北東部、下関市小月市街の北約6kmの瀬戸内海に流れる木屋川と田部川の合流点に開けた小盆地。 江戸時代は長府藩領。慶長15年(1610)の検地帳では既に田部村には市屋敷32軒もあった。 村内を萩と赤間関(下関市)を結ぶ赤間関街道が通り、街道沿いに宿場町が栄えていたのだろう。江戸中期の「防長地下上申」では、田部村の家数107軒うち市屋敷43軒・人数673人とあり、市屋敷を構えている商人・職人が43軒も見え、江戸中期にも田部村が田部市・宿場町として繁栄していたことが判る。 幕末の「村浦明細書」では田部村の家数103軒・うち市屋敷43軒・人数485とある。 市屋敷数は変わらないが、近隣の諸村では人数が軒並み3割ほど減少していることから見ると、田部村の市屋敷数が変わらないのは田部市が繁栄していた証であろう。 尚人数の減少は商品経済の発達で、赤間関(下関)が港町として発展し、近郊の農村からの人口流出が有ったためと思われる。運上銀がかけられた商業に酢醤油業・売薬業・酒造業・木挽業・鱠物業・質業など多くの業種が見られる。 今、古い町並みは、国道491号線の東側の通り、旧赤間関街道に沿って見られる。赤褐色の瓦と黒い瓦が入り混じり、平入り妻入り、切妻入母屋の建物が入り混じった統一制のない町並みのようだが、どの形式の家屋も伝統的な様式の家屋で、江戸時代から明治時代の繁栄の名残は色濃く残っていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1988 山口県の地名 平凡社 下中邦彦 昭和55年 |
菊川町田部の町並み |
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