瀬戸田町の町並み 
瀬戸田・福田
地図


瀬戸田の町並
 製塩の島 生口島(いくちしま)の西北部に瀬戸田町の古い町並が残っている。瀬戸田町の形成は中世の生口荘の町家に由来している。元和5年(1619)の「知行帳」には島全体を一村として町屋敷分を生口島村と分けて記載しているところが、今回訪ねた瀬戸田町瀬戸田である。江戸期を通じて広島藩領で、正徳2年(1712)頃の瀬戸田町屋敷は東西2町12間・南北14町24間であった。
瀬戸田の中世は瀬戸内海水運の重要拠点で、尾道・三原と並んで繁栄した港であった。また瀬戸田の船が文安2年(1445)だけでも69回も兵庫北関を通過しており、500石積みの大船もあった。この瀬戸田船の主な積荷は備後塩・米・豆などで特に備後塩が最大のものだった。
江戸時代になっても、どの方向からの風にも強い港として、三原・尾道・忠海・竹原・因島・伊予三島などの諸方に開け、入港する船も尾張・阿波・讃岐・摂津や北国筋・九州の大小船舶があった。そして米穀・塩・石炭などを中心とした交易が行われていた
また寛永10年(1633)頃から天和3年(1683)にかけて、この地の多くの商人が塩浜を開き、元禄2年(1689)には初代浜問屋の得徳善兵衛が瀬戸田の一番浜を開いた。明治期も江戸時代に続いて製塩が盛んに行われ、明治10年には生口塩業組合が結成され、明治41年には瀬戸田塩業組合も結成されが、第2次世界大戦後塩業整理の波が押し寄せ、昭和46年に遂に塩田が廃止になり、江戸期以来の長い歴史に終止符を打った。
「芸備通志」(文政12年(1829)完成)によれば、村の広さは東西3町・南北5町、戸数600・人数1,751であった。明治8年の戸数581・人数2,247。明治13年の戸数780・人数2,954とある。
江戸期に港町として栄えていた町域は今でも古い町並を残している。港から観光地の耕三寺への参道も古い町並を通っていて、土産物屋や飲食店・旅館などが軒を連ねている。
そんな一画に、「浜旦那」と云われた豪商の堀内家の屋敷があった。入り母屋造りの重厚な家屋で、その辺りの町並を威圧しているようであった。 
町並み指数 40
参考文献     
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和62年
  広島県の地名  平凡社  下中邦彦   1982年

瀬戸田の町並

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福田の町並

福田の町並

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