厚狭村は厚狭盆地の北東部に位置し、山陽道が通り江戸時代には厚狭村とか鴨庄村と呼ばれ、厚狭市のある市場町であった。江戸時代を通じて萩藩領。 慶長5年(1600)と慶長15年(1610)の検地帳にはこの一帯を「鴨庄」と記し、慶長15年の検地帳では百姓屋敷220・市屋敷75とある。「防長地下上申」では鴨庄村と記し享保13年(1728)の家数396・人数2,046とある。「防長風土注進案」では厚狭村とし家数619・人数2,502とある。厚狭市については「中町より下市の者は商事を専らとし、農業をも相勤め申候」とあり、農業の合間に半紙を漉いたり炭を焼いたりしていると記している。「郡中大略」では厚狭村は蔵入り地の厚狭村と給領入合の鴨庄に分れている。 厚狭市について山陽道に沿い、南流する厚狭川の左岸にできた市町。慶長15年(1610)の検地帳には市屋敷75とある。「防長風土注進案」では、半宿であるが本宿同様の多くの通行人があったと記し、職業別では農業424・宿屋3・鍛冶屋11・硯師27とあり、赤間硯の名で知られる硯の加工業者が多くいたことが判る。 今回訪ねたのは、厚狭市が置かれていた所である。伝統的な様式の商家の建物が点在する町並みである。赤褐色の瓦屋根・黒い瓦屋根が混じって町並みを構成している。平入り妻入り、切妻造りの中に入母屋に近い形式の家屋が混じる。千本格子や虫籠窓も残っていたりして、古くから町場だった名残が残っている町並みだった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1988 山口県の地名 平凡社 下中邦彦 昭和55年 |
厚狭の町並み |
厚狭の町並み |
厚狭の町並み |
厚狭の町並み |
厚狭の町並み |
厚狭の町並み |
厚狭の町並み |
厚狭の町並み |
厚狭の町並み |
厚狭の町並み |