山陽小野田市の最南部に竜王山があり、その山の北西から西に城戸浦と刈屋浦が位置する。小野田周辺の海岸は江戸時代から明治時代にかけて、埋め立てが大規模に行われて、開作地が次々とできたが、今回訪ねた刈屋・城戸の前の浜は殆ど埋め立てられることなく、今でも眼の前に海岸線がある。 江戸時代を通じて萩藩領であった。そのため城下町萩から舟木宿を通って刈屋まで幹線道路が敷かれていて、舟木宿で山陽道(西国街道)と交わっていた。慶安2年(1649)に萩藩が定めた舟路の港に、城戸・刈屋の両浦がその名を連ね、のちに波止場も築かれた。両浦には廻船があり、天保年間(1830〜44)には34艘にも及び、廻船業者もいた。 また、城戸浦・刈屋浦は古くからの漁業集落で、江戸時代には西須惠村に属していた。「防長風土注進案」では西須惠村は家数769・人数3,522とあり、家数769のうち農民475・漁民221・廻船持4・船持31・大工23等とある。「防長地下上申」では両浦の船数は63、うち漁船が57、4枚帆が5、5枚帆が2とあり、当浦は漁業が盛んであったことが判る。 幕末の「郡中大略」には、城戸・刈屋組に267軒あり、20石積の廻船4艘、漁船151艘あったと記し、塩浜として「城戸3軒」とあり製塩も一部行われていた。 (城戸は今では木戸と書かれている。) 今町並みを歩くと、刈屋地区は急傾斜の斜面に細い路地道や階段道が走り、その細い道に沿って民家がへばりつく様に建っている。等高線に沿っては平坦な路地道、それに交わる道は階段道である。集落内には軽自動車と言えども入れない。急傾斜を支えるのは全て石垣である。同じ様な石で築かれた石垣だから、開発した時に出た石を積んだものだろう。 刈屋地区の急斜面集落に比べ城戸地区は平坦な部分の多い集落であった。 どちらの集落も漁師町にしては密集して建て込んでおらず、大きな家が多いように思う。城戸集落はやはり道は狭いがどこか宿場町・在郷町のような風情がある集落だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1988 山口県の地名 平凡社 下中邦彦 昭和55年 |
小野田(刈屋)の町並み |
小野田(刈屋)の町並み |
小野田(刈屋)の町並み |
小野田(刈屋)の町並み |
小野田(刈屋)の町並み |
小野田(刈屋)の町並み |
小野田(刈屋)の町並み |
小野田(城戸)の町並み |
小野田(城戸)の町並み |
小野田(城戸)の町並み |