江戸時代の玖波村は東は瀬戸内海に望み、沿岸部を山陽道が通り宿駅として賑わった。 中世は厳島神社領であったが、弘治元年(1555)からは毛利氏の支配となり、170石余りが厳島神社領であった。 江戸時代は広島藩領で家老上田氏給地。文化3年(1806)の「村高家数人数神社寺院書抜帳」では家数424軒・人数1,913人。文政2年(1819)の「国郡志書出帳」では426軒・2,012人、山陽道の玖波宿の宿場町で上之町・中町・本町・胡之辻・下之町・風呂町・上裏町・下裏町・川本町の町場を造っていた。山陽道の安芸国最西端の宿場で木野川を渡って周防国瀬戸宿(岩国市)へ続いた。 農業よりも近郊から積み出される山荷物・材木・炭・薪・茶の問屋や雑穀・干鰯・塩などの交易を主業とした町場で、本陣・口屋番所・上田家炭納屋役所が置かれていた。 本陣は寛永9年(1632)広島藩家老上田氏が庄屋平田家の居宅に茶屋を設けたのが始まりで、その眺望が素晴らしいので、文人墨客が集まるところとなり、洪量館名づけられた。 享和2年(1802)の尾張の商人菱屋平七の「筑紫紀行」には「人家500軒計、宿屋おほく茶屋あり、‥‥」と書かれている。 正徳2年(1712)の大火で270軒を焼失。慶応2年(1866)の征長の役では民家442軒が焼け、本陣・口屋番所・上田家炭納屋役所などを焼失した。 現在の町並みは、征長の役で焼かれた後に再建されたもので、殆どは明治以降に建てられたものである。国道2号線が旧宿場町の海側を通ったため、町並みが昔のまま残された。白漆喰の壁や格子の美しい町並みが残っていて、山陽道宿場当時の面影を色濃く残す静かな町並みである。 切り妻造り、平入りで白漆喰塗り込め、2階建て桟瓦葺きで、かっては虫籠窓だったのだろうが今はガラス窓に改装されている。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 中国地方のまち並み 中国新聞社 日本建築学会中国支部 1999年 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 |
玖波2丁目町並み |
玖波2丁の町並み |
玖波3丁目の町並み |
玖波3丁目の町並み |
玖波3丁目の町並み |
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