この地は戦国時代から町場が形成されていたようで海上交通の要衝でもあった。そして江戸時代には山陽道も通っていた。 慶長6年(1601)広島に入った福島正則は甥の福島伯耆守を小方に配し、城山に亀居城を築いて西方の備えとしたが、完成の前に伯耆守が死亡し、完成したものの3年後には幕府の命により取り壊されてしまった。当時小方町内は「家中町」と呼ばれ、村民は町から遠く離れた卸場というところに住んでいたが、亀居城の廃棄後は旧家中町に移り住んできたと伝えられている。 江戸時代を通じて広島藩で、家老上田氏給地だった。上田氏は小方に屋敷を構えて家臣を派遣して給地村の支配に当った。村には境番所・口屋番所・紙見取所などが置かれていて、村の広さは東西3里・南北1里半であった。 元禄15年(1702)小方村役家改め覚書の戸数366。明和5年(1768)小方村人馬改帳の人数2,306。文化3年(1806)村高家数人数神社寺院書抜帳では家数525・人数2,457。安政6年(1859)組合十二ヶ村諸事書出帳では家数609・人数2,766。 村内では町組と枝郷に分かれ、町組は上町・中町・下町・裏町・浜町など11町があり、枝郷では9組に分かれていた。湊には埠頭があり諸国の廻船が出入りし問屋商いで賑わっていた。そして山陽道の宿駅もあり、街道沿いに町家が展開していた。農間余業として木野村・大竹村同様この村でも紙漉きが盛んであった。 享和2年(1802)の尾張の商人 菱屋平七の「筑紫紀行」によると「町屋はすべて五百軒あまりていと長し、商家多く諸物の問屋及宿屋あり、此所より宮島其外の所々へも渡るべき便船多し‥‥」と記されている。 今 古い町並は小方一丁目の旧山陽道のに沿って展開している。旧亀居城のあった城山の麓を自然に湾曲した街道でその両側に町並みが展開する。しかし伝統的な様式の家並みは点在する程度で、連続して古い町並を形成しているとは云えない。それでも切り妻造りの平入り家屋で、虫籠窓や格子を備えた民家、袖壁を備えている家もあり、かっては街道筋であったことが偲ばれる町並であった。 広島県の歴史散歩 山川出版社 広島県歴史散歩研究会 1992年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 |
小方町の町並 |
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