大田は島根県のほぼ中央部で、日本海に面して位置している。石見三田と呼ばれる大田市・浜田市・益田市の最東部に位置する。 当地は古来より、石見と出雲を結ぶ交通の要衝として重要な位置を占めたが、特に戦国期に石見銀山が開発されるとその重要性は一層高まった。 大田市と云えば戦国時代の尼子氏・毛利氏・大内氏の石見銀山争奪戦だが、ここではそれに触れずに大田の町に付いて記載しよう。 大田村になったのは明治8年からで、それまでの江戸時代には大田北村・大田南村であった。両村とも江戸期は寛永20年(1643)〜天和2年(1682)の吉永藩領の期間以外は幕府領大森代官支配地であった。 先ず、大田北村は円応寺の薬師市が立っていて村の中心地が町場化していた。元禄10年(1697)の石見銀山領村々覚によると、村の南方三瓶川の左岸地帯に町場が形成されている。家数は本家128・門屋234・人数1,474とある。寛政元年(1789)の私領御巡見様御案内帳では家数411・人数1,682とある。文政13年(1830)の村明細帳では家数416、内202軒が町方在住で、職業はあらゆる業種の商人・職人がおり、町場としての形態が整っていた。 次いで、大田南村は村の中心は町場で大田南町と称し、室町末期より鍬市・竹市が立ち、また稲荷神社には稲荷市が立った。吉永藩では当村に町奉行を置いて、南北両町の取り締まりにあたらせた。元禄10年(1697)の石見銀山領村々覚によると、家数本家102・門屋225・人数1,299とある。寛政元年(1789)の私領御巡見様御案内帳では家数404・人数1,621とある。 吉永藩主によって北町の市と南町の市が統一されて、大田の春秋彼岸市となり、大田北町も大田南町もともに町場として発展した。 そして今も春秋の彼岸市は150店もの露天商が並ぶ賑やかさである。このように大田の町はこの彼岸市によって発展したと云って過言でない。 今古い町並みは旧石見街道に沿って、三瓶川に架かる神田橋の北側と南側で展開している。平入り切り妻造り2階建ての家屋が続く。山陰独特の赤褐色の瓦屋根の家が多い。かって街道に面して商売をされていたであろう家屋が続くが、今は小売商も少なくなり、ひっそりしたかって商業で賑わっていた面影の濃い街道筋だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1988 |
大田町大田の町並 |
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