仁摩町宅野は島根県中央部、日本海に面して位置し、宅野浦を有していた。古くから左官の出稼地として有名であったところ。 石見銀山が本格的に開発された大永6年(1526)頃から、採掘された銀鉱石はこの宅野や馬路から博多に積出されていた。 江戸期を通じて幕府領大森代官所支配地であった。この地域の主産業は農林漁業である。沿岸砂丘地帯はイワシ網を主とした沿岸漁業が早くから行われ、人口吸引を強めて漁業集落を形成していた。 その上、人口の増加は鉄山経営・窯業・廻船業・漁業などの発達があったからだ。この宅野での製鉄業は砂鉄産地でないが、大森銀山経営に必要な製鉄用具を製造するために特別設けられたと云われている。 その家数・人数の増加は宝暦5年(1755)142・579であったのが、慶応3年(1867)には305・1,470となっていて大幅な人口増が見られた。 天保6年(1835)村差出明細帳によると「当村少しの町場にて、米麦塩茶並びに小物類売買仕り候」と云われる町場を形成していた。これは港を持つことにより商工業が盛んになり町場が形成されていたためだろう。 安政5年(1858)の「物産書上控」を見ると米・雑穀・塩・海産魚類・海草の他、酒については村内3分、他村7分。油については村内5分。鉄製品・瓦などがあげられている。 大森銀山の外港として、また西廻り航路の港町として発展していたが、鉄道開通後は漁港としての機能のみになってしまった。 今、集落内を歩くと、密集して建て混んだ漁業集落の様相は少なく、旧造り酒屋・旧味噌醤油業者・旧網元等の豪勢な家屋が多く見られる。廻船業者も油商人もいたのだろう。大型の家屋が多い在郷町的な性格の町だった証だろうと思った。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 島根県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
仁摩町宅野の町並 |
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