大田市は細長い島根県の中心部で日本海に面して位置しているが、大森の町は大田市の南西15kmの山間部にあり、北東から南西に走る二つの尾根筋に挟まれた細長い谷あいにある。 南の尾根筋の主峰が銀を産出した仙山(標高537m)であり、北の主峰が要害山(山吹山)(標高412m)である。この山頂には山吹城跡がある。「山吹城を制するものは銀山を制す」と天下盗りに挑む戦国大名争奪の的となり、周防の大内氏、出雲の尼子氏、安芸の毛利氏らが、この山城をめぐって戦乱絵巻を繰り広げたが、最終的には毛利元就の領有するところとなった。 石見銀山は14世紀初頭の発見といわれているが、本格的な採鉱は戦国時代になってからである。博多の豪商、回船問屋の神谷寿貞が大社町の銅山主三島清右衛門とともに大永6年(1526)から開発を始めた。 戦国大名による争奪戦を経て羽柴秀吉に、そして関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、すばやく石見銀山を支配地とし、大久保石見守長安を奉行として送り込んだ。大久保長安は石見銀山の開発を急速に進め、安原傳兵衛と協力して釜屋間歩・大久保間歩を掘り当てるなど、石見銀山の最盛期をもたらした。 最盛期の慶長から寛永の頃(1596〜1644)の銀山町の戸数は二万六千余り、寺の数百余り、人数二十万人、一日の米穀消費量千五百石、家は家の上に建て、軒は軒の下に連なったということだが、当時の江戸の人口が四十万人であったから、大森の二十万人は本当かどうかは別にして、大森の町の端から山の上まで軒下づたいに傘なしで歩けたという。 だが、銀の産出量の多かったのは、この時の40年間ばかりで、寛永の末期頃より次第に衰運に傾き、延宝年間(1673〜81)には往時の面影をとどめないほどになり、そのまま幕末まで盛隆を見ることがなかった。 銀山内人数についても、元禄15年(1702)1621人だったのが、文化年間(1804〜18)には488人、幕末の文久年間(1861〜64)には122人と減少している。 大森町は銀山の外郭町として発展した町。大森代官所前から羅漢寺の門前町だった羅漢町までを大森町。その先、蔵泉寺口から龍源寺間歩までを銀山町(山内)と呼んだ。 大森の町並みは、武家と商家が混在していて、階層別の住み分けのあいまいなことが特徴である。それは、二代目奉行竹村丹後守が、代官所を山吹城の麓から現在地に移したときに、普通の城下町のように、武家屋敷と町人町の明確な町割りをしないまま、武家屋敷と町家を混在させて建てたためである。 銀山地区を鉱山地区「山内」として区画し、すでに形成されていた駒の足の町並みと奉行所の間に、御用商人宅や郷宿、あるいは武家屋敷などが配されて、大森町を政治、経済の町としたために、武家と商家が混在することになったのである。 この駒の足地区が一番伝統的な古い町家が残る印象的な町並みであって、電柱が無ければ江戸時代にタイムスリップしたような景観が続いた。 町並みの南端の銀山川に沿ってにどっしりと落ち着いた白壁の長屋門がある。大森代官所表門と長屋門である。町並みについては、大森町年寄遺宅熊谷家、郷宿 田儀屋遺宅青山家、代官所地役人遺宅旧河島家(上級武家屋敷)、代官所同心遺宅柳原家(下級武家屋敷)、代官所地役人遺宅三宅家(中級武家屋敷)、代官所地役人遺宅阿部家(中級武家屋敷)、郷宿泉屋遺宅金森家などあるが公開されているのは旧河島家だけである。 旧河島家については、建物は組頭まで昇進した上級武士の構えを良く伝えている。この家は商家と違い主屋が通りから奥まったところに建っていて、切り妻造りの平屋建て、平入り、赤味の少ない石州の桟瓦葺きで、道路に面しては土塀で小さな門がある。 地役人というのは、世襲の現地役人のことであるが、上級から下級までの役割があって、それが家屋に現れている。町人でも「年寄」「郷宿」などの家屋は大きくて重厚な家屋であった。 島根県の歴史散歩 山川出版社 島根県の歴史散歩編集委員会 1995年 歴史の町並みを歩く 保育社 高士宗明 平成6年 歴史の町並み事典 東京堂出版 吉田桂二 1995年 町並み・家並み事典 東京堂出版 吉田桂二 平成9年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 山陽・山陰小さな町小さな旅 旅と渓谷社 旅と渓谷社大阪支局 1998年 |
大森地区の町並み |
駒の足地区の町並み |
大森地区の町並み |
駒の足地区の町並み |
駒の足地区の町並み |
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