尾道は広島藩の東端の宿駅とされ、山陽道・石見路が交わり、西回り航路の北前船の寄港する港町・宿場町・商業の町として発展した町。 慶長5年(1600)毛利氏の後に福島氏が広島に入り、この尾道の久保町・十四日町・土堂町にそれぞれ町年寄りを置いて町制が敷かれた。そしてその後元和5年(1619)広島に入った浅野氏は尾道浦を村方より独立させて尾道町とした。 江戸時代には東西に延びる山陽道も通り、そこから北へ向かう石見路も分岐した町で、寛文11年(1671)からは北前船も寄港するようになり最盛期を迎えた。物資の集散量が増大し海岸は次々に埋立てられて、町は南へと広がって行った。また石見銀山の銀が石見路経由で当地から広島藩の船で室津(現兵庫県)まで輸送され江戸に向かった。 今回訪ねたのは、旧石見路(現県道363号線)沿いの、千光寺公園の東側山麓の町並みである。江戸時代にはこの道筋の東側は久保町、西側は十四日町で町境を南北に伸びている街道で、十四日町には本陣(笠岡屋)・問屋場があった。 旧久保町で山陽道から北に分岐した石見路は、少し北に進んで左に折れ、次いで右に折れて北に向かっている。その街道に沿ってイ草・畳表などを扱う問屋を中心に商店が軒を連ね、北前船で運ばれた海産物の問屋や加工店などもあった。 享和2年(1802)尾張の商人菱屋平七はその「筑紫紀行」に「町家五六千軒あり、町通り家居のさまなんど。上方に替る事なし。商家は万の問屋おほし……」と記している。 今でも古い形式の家屋はその旧石見路沿いに展開している。中2階建て平入り・切り妻造りの建物で、漆喰塗込めの虫籠窓や袖壁を備えた建物も多くみられる。 でも今は大変交通量が多い道で、バスやタクシー・トラックから自家用車と自動車が引っ切り無しに通るので、写真を撮るのも苦労する道になっていた。 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 |
長江1丁目の町並 |
長江1丁目の町並 |
長江1丁目の町並 |
長江1丁目の町並 |
長江1丁目の町並 |
長江1丁目の町並 |
長江1丁目の町並 |
長江2丁目の町並 |
長江2丁目の町並 |
長江2丁目の町並 |