奥出雲町横田は島根県の東南部で東は鳥取県、南は広島県と境する位置にある。 江戸時代は松江藩領であった。戦国期、横田庄の盆地の北西隅の高鍔山に藤ヶ瀬城が築かれて、その城下の斐伊川の北岸の横田村に六日市場、南岸に大市場が開設され、急速に町場が形成された。関ヶ原の戦い後、藤ヶ瀬城は廃されるが、六日市場・大市場は横田町として発展し、六日市には代官屋敷が置かれた。横田村の中に横田町が出来たもの。 寛文10年(1670)の「横田町地銭帳」には大市42軒・六日市16軒の町家があると記す。 当地では中世以来、鈩製鉄が営まれていた。近世にはいり、鉄穴流しにより下流域に土砂が流れ農作物の被害が大きく、松江藩では斐伊川水系での鉄穴流しを禁止した。しかし寛永13年(1636)それによる賃仕事を失った農民の嘆願により、鉄穴流しが再開され、乾燥期の秋に操業が行われるようになった。だが、消費量の多い大炭の集荷は容易でなく、操業も毎年とは行かなかった。 今まで自由売鉄をしていた鉄師たちに対し、松江藩は慶安元年(1648)から御買鉄制をしき、藩札で鉄を買い上げ大坂へ送って正金にする方法を取り始めた。 しかし、享保7年(1722)に藩による鉄買代金の精算を巡って藩と鉄師との間に確執が生じた。そこで享保11年(1726)松江藩は鉄方御法式を施行し、20数名いた製鉄業者のうち大水田地主層9名に限って製鉄を許可し、他の者の生産を禁止した。 他方、元禄4年(1691)天秤吹子が伝来し、鈩場の移動が容易でなくなった。そのため高殿(建屋)が設けられ秋から冬にかけて操業を行うようになった。さらに鍛冶屋の技術を導入し割鉄(錬鉄)として出荷するようになった。これを「企業たたら」という。しかし木炭集荷の困難さから一鈩場での操業は長続きせず、2〜3年で鈩場を移動せねばならなかった。 一方藩と鉄師は馬の増産を図り、水田地主として農民に馬を貸与して、農耕力を増強させ輸送力の増強にも努めた。その結果「企業たたら」の経営は飛躍的に前進し、毎年操業から年間の操業月数の増加へと発展した。 馬による輸送力の増強で、木炭の輸送が容易になり、重い砂鉄の運搬も楽になったため、宝暦年間(1751〜64)以降は鈩場の固定も容易となり10年以上の継続も可能となった。 明治中期になると、この仁多郡だけで我が国の和鉄生産額の半分を生産するほどになった。しかし藩の保護政策も無くなり、洋式の鉄鉱石製錬の高炉製鉄が開始されると、生産性の低い和鉄生産は決定的な打撃を受けて、大正末年一斉廃業に追い込まれた。 廃業した鉄師たちは水田地主でもあり、農産物の品種改良と普及に努め、米は良質の仁多米の産地を形成した。運搬用だった牛馬の改良にも努め、食肉用として仁多牛を育成し、我が国の最優良牛の産地の基礎を築いた。また鈩場用の木炭生産を家庭用燃料生産に切り替え、改良に努めた結果島根木炭の主生産地となった。 また、この地には雲州算盤がある。幕末から始まったもので、伝統工芸品として明治以来順調な発展を遂げたもの。 今回訪ねたのは大市場の後の町並みで、近代まで繁栄していた為だろう、近代的な建物も多くみられる。金融機関まで支店を構えているのは、今でも町に活気ある証であろう。切妻造り平入りの平屋建て・中2階建て・2階建てとバラエティに富む町並みだ。屋根瓦も赤黒入り混じっている。 町並みの西部で南北に貫く道路に沿っては、伝統的な様式で重厚な商家建物が現役で残っているのは、この地が最近まで繁栄していた賜物と思われるが、古い町並みとして見ると、見るべき建物のある範囲が小さいのがチョット気に掛かる。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 島根県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
横田の町並 |
横田の町並 |
横田の町並 |
横田の町並 |
横田の町並 |
横田の町並 |
横田の町並 |
横田の町並 |
横田の町並 |
横田の町並 |