隠岐の島町は島根半島の北方海上約50kmにある隠岐諸島で一番大きな島後を領域とする町である。 隠岐国では慶長年間(1596〜1615)から明治期までの250年間、石高は8パーセント増加しただけだが、家数は2倍近く、人数は1.8倍に増加している。西回り航路の開始、北前船の寄港に刺激され、廻船業が勃興し、商品経済に係りながら隠岐は発展していった。 西郷と呼ばれる地域が隠岐の島町を含む隠岐諸島における政治・経済・教育・文化の中心地である。 元々西郷という地名は、近世の矢尾村の中の地名であったが、松江藩の陣屋が置かれて以来、広く地域全体の名称として使われていたもの。 江戸期の矢尾村・目貫村・宇屋村が明治7年に合併して西郷港町となり、矢尾村が西町、目貫村が中町、宇屋村が東町と改められた。 この3町が全面的に合併して西郷町となるのは、明治37年で町役場は西町に設置された。「隠岐島誌」には「東町は宇屋川(東郷川)の東、僻隅地にて漁業者多くここに住す。中町は中部に位置し、汽船の発着地たる桟橋付近の地を占め、商漁雑居し、旅館多し。西町は西部に位置し、矢尾川に沿い、本町(西郷町)の中枢地にして、隠岐島庁、西郷町役場、その他の官公庁も多く、商店の主なるものも相接して市況繁盛なり」とある。隠岐の島の政治・経済・教育・文化の中心がこの西郷町であった。 東町となった宇屋村も、中町となった目貫村も、江戸期は幕府領松江藩預かり地。貞享4年(1687)〜享保5年(1720)は幕府領大森代官所支配地。 貞享5年(1688)の「増補隠州記」によると宇屋村は家数48・人数236、牛8、漁労を専らとし、船数24で鰤・いか・アワビ・ナマコ・飛魚・鯛などを水揚げしていた。また、目貫村は家数86・人数501、牛10、大船16・手安船31などで、鯛・鰤・イカ・アワビ・ナマコなどの水揚げであった。耕作もするが漁労を専らとし、廻船商売を生業とするとある。 今回訪ねたのは、東郷川の右岸に沿った中町、左岸に沿った東町の町並である。町並は共に街道に沿った漁師町という感じの町並で、道に沿って軒を寄せ合って、狭い間口の家屋が連なっている。本来は板囲いの家であったであろうが、漆喰塗りやモルタル塗りの家屋も多く見られるようになったのだろう。 廻船業者も多くいたようだが、漁村としての町並の様相から、小型船による近海を主とする廻船業だったと想像できる町並であった。 島根県の歴史散歩 山川出版社 島根県の歴史散歩編集委員会 1995年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 島根県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
中町の町並 |
中町の町並 |
中町の町並 |
中町の町並 |
中町の町並 |
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東町の町並 |
東町の町並 |
東町の町並 |
東町の町並 |
東町の町並 |
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