長門市三隅下の町並み 
三隅下(豊原)
地図


三隅下の町並み
 長門市三隅村は三隅川を中心に三隅平野を形成し、北は仙崎湾に面している。
江戸期を通じて萩藩領であった。江戸中期に三隅上・三隅中・三隅下の3村に分村したと思われるが、幕末まで三隅村の名は残り、大庄屋もいたところを見ると連合村として、統轄されていたようだ。
三隅下は三隅川下流域に位置し、川に沿って平野が展開する。城下町萩と赤間を結ぶ赤間関街道(北浦街道)が通り、川船の港であった三隅下(豊原)には商家の建ち並ぶ町並みがあった。「防長地下上申」によると、家数422・人数1,697、船数47うち廻頭4・猟船31・網船12とある。
この豊原は船港で、物資の集散地として機能していたが宿駅機能がなく、宿は2km程東にある三隅中(市地区)であった。「防長風土注進案」では豊原の家数152軒とあり、市地区の62軒を大きく上回り、この辺りの最大の町だったようだ。
豊原には藩の御米蔵も置かれ、廻船は豊原から年貢米などを積んで萩の浜崎まで運んでいた。大坂屋や三坂屋と云われた豊原の商人は、廻船を使って京都・大坂から呉服や生活物資を移送し、この地から更に奥地などに陸路運ばれた。
明治24年家数・人数は455・2,665であって、明治30年代の豊原は商業が盛んで、川港で船の定期運行も行われていた。旅館4軒、料理屋5軒もあった
今回訪ねたのは豊原地区で、赤褐色瓦と黒瓦屋根が混在しているが、黒瓦屋根の方が多いようだ。切り妻造り、平入り妻入り、平屋・中2階建て・2階建てとバラエティに富む家屋が点在している。でも江戸期から明治期まで遡れる家屋が少なく、明治時代までの繁栄の名残が少ないので、チョット寂しい町並みだった。
昭和19年・昭和29年の大水害で流失した家屋が、全部建て替えられず歯抜け状態のままになっているようだ。
町並み指数 20
参考文献    
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1988
  山口県の地名  平凡社  下中邦彦  昭和55年

三隅下(豊原)の町並み

三隅下(豊原)の町並み

三隅下(豊原)の町並み

三隅下(豊原)の町並み

三隅下(豊原)の町並み

三隅下(豊原)の町並み
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