上関町室津の町並 
室津
地図


室津の町並み
 この室津の地は中世には京都賀茂社正祝の知行地として室津の名が出てくる。
江戸時代は萩藩領であった。元文2年(1737)の家数195軒(地方61・浦方134)、人数1,117人(地方358・浦方759)(地下上申)。天保13年(1842)の家数479軒(地方232・浦方247)、人数2397人(地方1,187・浦方1,210)(註進案)とほぼ半数づつであった。
船数は浦方が27艘と圧倒的に多く、廻船・漁業が盛んであった。
近世の家並みについて天保13年の「註進案」は室津村の山峡又は山麓にある集落は、高地や低地が入り混じっている中に、茅葺屋根が散在し所々に瓦屋根がある。浜辺にある集落は平地で瓦屋根と茅葺屋根が相混じり、家並みも揃って並んでいる。浦方は瓦屋根と茅葺屋根が相半ばし町並みも揃い、人家が密集していて、湊には諸廻船が多く繋がれていて、米穀その他の諸品仲買又は問屋商売・遊女茶屋商売などがあると記している。
又、「註進案」には室津浦では228軒のうち商家180・漁家15・船持ち12・大工9・船大工2・その他11となり、店持ち商人や資本のある者は廻船を所有していた。
室津浦の築出町にあった肥後屋は海の本陣とも云われ、元治元年(1864)には七卿落ちで有名な三条実美らが毛利元徳とともに上洛の途中宿泊し、高杉晋作らも多くの維新の志士も宿泊している。
萩藩は弘化2年(1845)瀬戸内海上交通の要所である上関海峡防備のため、室津の瀬戸山に2基の台場を設置している。
今 町並みを歩くと上関浦と共に発展した町並みが残っている。上関浦が商業の町としての妻入りの商家の建物が多いが、ここ室津浦は平入りの建物が多いようである。古い建物の建築年代は見た感じでは室津浦の建物は江戸末期であろうが、上関浦は明治に入ってからのものが多いように思う。
海岸沿いに明治12年建築の四階楼(県指定有形文化財)がある。維新の志士小方謙九郎が建築した擬洋風木造4階建ての建物で、最近まで旅館として使われていた。擬石の隅石(コーナーストーン)を付けた姿は明治初期建築の洋風かぶれの象徴でもある。
この町並み散策にあたり「かみのせき郷土史学習にんじゃ隊」の適切なる案内と説明を受けたことをこの場を借りて御礼申し上げます。
今、四海楼の前の上関海峡の一部で埋め立て工事が始まっている。海と共に歩んだ古い町並みがまた海から切り離されてしまう。悲しいことである。
町並み指数  40
参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店角川  日本地名大辞典編纂委員会  1988年
  歴史の町並み再発見  葦書房  読売新聞西部本部  1993年
  山口県の地名  平凡社  下中邦彦  昭和55年
  中国地方のまち並み  中国新聞社  日本建築学会中国支部  1999年

室津の四海楼

室津の町並み

室津の町並み

室津の町並み

室津の町並み

室津の町並み
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