三次には可愛川・西城川・神之瀬川・洗馬川などの河川が集まり、三次の中心で合流し江の川となって北流し日本海に流出するため、霧の発生では有名な所として知られている。 山陽と山陰を結ぶ内陸に位置し、陸上交通でも江の川水運でも重要な位置を占めていた。 中世末期に上里村の中に五日市町が、原村の中に十日市町が成立し、やや遅れて17世紀前半に上里村の中に内町が成立した。三次町はそれら五日市町・十日市町・内町の三つの町人町の総称であり、三次三ヶ町ともいった。 関ヶ原の戦い後、毛利氏が広島から去り、広島藩に福島正則が入封し、三次には家臣尾関正勝が配属された。元和5年(1619)福島正則が改易され浅野長晟が入ったが、寛永9年(1632)長晟の没後、広島本藩は浅野光晟が継いだが、三次は光晟の兄の長治が継ぎ、三次支藩が成立した。しかし三次藩は藩主が代々急逝したので、享保5年(1720)五代88年間で広島本藩に合併になり、三次町は城下町から宿場町・在郷町となった。 三次藩の成立に伴い城下町となった三次町の古図によると、三次小学校の北側辺りに藩主の居館があり、それを囲むように武家屋敷がある。五日市町は武家屋敷の東側で西城川に沿って南北に続く長い町並。内町は居館の南側で武家屋敷の中を東西に延びる短い町並。十日市町は洗馬川の南岸自然堤防上に位置する長い町並であった。 享保3年(1718)の記録によると、五日市町は家数753・人数2,419。内町は家数89・人数777。十日市町は家数312・人数1,053で3ヶ町合計は家数1,154・人数4,249であった。職種は多種類に亘っているが、米屋59・煙草屋41・酒屋37・小間物屋19・紺屋22・鍛冶屋14・大工57・桶屋14・質屋26など各種の職業があった。 そして前述のように享保5年(1720)で三次支藩が無くなり、家臣団が広島城下に引揚げたため、三次は城下町でなくなり単なる宿場町・在郷町となった。 でも三次は山陰と山陽を結ぶ交通の要地であり、雲石路・石見路・雲伯路・備中新見路などがあり宿場町・在郷町としても栄え、伝馬30匹が常置されていた。 明治期に入り三次町は郡の中心地となり、郡役所・裁判所・警察署のどの行政機関が集中し、明治24年の家数1,340・人数5,575となった。 江戸期には自由な運航が出来なかった江の川水運も、明治に入って大いに発達し、北九州や下関の産物も三次に入り、当地の産物も川船で各地に出荷された。 今町並を歩くと「卯建のにあう町」という看板があちこちで見かけられ、古い町並の啓蒙に力を入れておられるようだが、うだつの数より看板の数の方が多く、どこに卯建があるのだろうと探すと、「みよし本通り人形館」の右隣で見つけたが、それ以外は気づかなかった。でも袖壁は各所で見られ、うだつの町並より袖壁の町並であった。 広島県の歴史散歩 山川出版社 広島県歴史散歩研究会 1992年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 |
三次町の町並 |
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