三次市吉舎町吉舎の町並 
吉舎町吉舎
地図


吉舎町吉舎の町並
 吉舎(きさ)は三次市街から南東約15kmで、江の川支流の馬洗川が町の中央部を南から北に流れ、馬洗川の中流域に位置している。世羅台地から三次盆地への入口に当たり、瀬戸内海と備後北部から出雲地方を結ぶ交通上重要な地位を持っていた。
江戸時代は広島藩領で、尾道から甲山を経て吉舎・三次を通り石見に通じる石見路、福山から上下を経て吉舎・三次を通り石見に通じる石州路の宿駅であった。宿駅は吉舎村の村役人とは別に町年寄以下の町役人が任命されていた。
享保6年(1721)の吉舎村万指出帖控によると、吉舎村の家数は147・人数905とある。
古くは馬洗川の西側に「古市」が開かれていたのが、吉舎の町の始まりで、その後、戦国期頃には馬洗川の東側の扇状地の中央部に四日市が、そしてこれとほぼ並行する形で馬洗川沿いに七日市が成立し、宿場町として町人の定着を見たと考えられる。
前記と同じ、享保6年(1721)の吉舎村万指出帖控によると、四日市は長さ1町・家数20軒、七日市は長さ3町20間・家数48軒とある。
石見路は陰陽を結ぶ往還路であり、石州路は天領の上下陣屋が大森代官所の支配だったため、大森代官所や山陰諸大名の家中の江戸への往来などに吉舎宿はよく利用された。毎年秋には大森銀山で採掘された運上銀・銅がこの往還路を下り尾道港へ運ばれていて、三次宿と甲山宿との中間の吉舎宿は一行の昼休所となっていた。
また、嘉永2年(1849)写しの「吉舎村絵図」には町のほぼ中央に「御銀蔵」と記す建物が見られる。
明治に入ってからも、吉舎はこの地域の行政・経済の中心地として発展を続けたが、大正4年に広島〜三次間に芸備鉄道(現JR芸備線)が開通してからは、吉舎の商業機能は大幅に低下してしまった。昭和10年になって福塩北線(現JR福塩線)が開通し、吉舎にも駅が開設されたが、かっての様な賑わいは戻ってこなかった。
今、古い町並みは吉舎本通り(吉舎七日市)に見られる。伝統的な様式を備えた商家の建物も残っている。平入り切り妻造り、中2階・2階建てで、袖壁を備えた家屋が多く見られるが、大多数の建物は明治期以後のものと思われる。赤褐色の瓦屋根は少ないようだ。町並みの端、馬洗川に沿って造り酒屋の福六酒造の白壁の酒蔵があったが、その前にある大きな松の樹が枯れていたのが印象に残る。
町並み指数 40
参考文献     
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和62年
  広島県の地名  平凡社  下中邦彦   1982年

吉舎町吉舎の町並

吉舎町吉舎の町並

吉舎町吉舎の町並

吉舎町吉舎の町並

吉舎町吉舎の町並

吉舎町吉舎の町並

吉舎町吉舎の町並

吉舎町吉舎の町並

吉舎町吉舎の町並

吉舎町吉舎の造り酒屋
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