宮島町は広島湾の西南に浮かぶ周囲30kmの島で、昭和25年までは厳島町と云われていた。最も深い入江で広い干拓ができるところに、厳島神社が造営され、その近くの扇状地に門前町、さらに港町という形で市街地が形成された。 慶長5年(1600)毛利氏の防長移封により、新たに広島に入封した福島正則は、入国早々厳島掟を下し、従来の社領を全て没収する代わりに、祭料・社家・供僧・内侍などの扶持米を支給し、別に藩より造営料を支出することにした。こうして近世的な秩序に組み込まれた。 厳島の家数・人数は正徳5年(1715)981軒・3,590人、延享3年(1746)3,728人、天明3年(1783)728軒、文政8年(1825)1,028軒・3,743人で、俗に「厳島宮千軒」と称された。 町並は厳島神社の後ろから西側に位置する旧西町と、東側の旧東町に分かれる。西町は東町に比べ町の成立が早く、中世末には形成されていた。社家・供僧・町人などがの住んでいた。 元来、聖地として無住であった厳島に内侍をはじめ社家・供僧、さらに神社と関係した職人・商人らが常住するようになったが、それらは西町地域内であった。 東町は厳島神社の東側に位置する町人町で、西町に比べて成立が遅く、中世末頃と思われる。同時にこの山麓にも、16世紀前後に諸寺院が創建されるようになり、その門前に小規模な町並が形成された。この東町の様相が一変するのは、慶長期から元和期に、有浦の海岸線が埋め立てられて、新しく町が形成され、次いで寛永2年(1625)に広島城下材木町にあった遊郭を、東町はずれの新町に引っ越した。 広島藩は厳島の繁栄を図るため、島での浄瑠璃や芝居の興行を認めたり、前述のように遊郭をこの地に移したりした。このため春・夏・秋の宮島の市には、多くの人が集まった。こうした藩の繁栄策によって、厳島は観光・歓楽の町として栄え、松島・天橋立と並ぶ名勝地となった。「日本三景」の一つとして広く知られるようになった。 島内の産業は藩有林からの木材の伐り出し、城下や近郷への薪の搬出が主なものであったが、参拝者の増加に伴い土産物の生産・販売へと重点が移った。名産には杓子・松皮盆・色楊枝などの木工品であった。現代にも受け継がれているものに杓子があげられる。 宮島歴史民俗資料館は江戸時代の豪商旧江上家の豪壮な家屋を修理して公開しているものである。 広島県の歴史散歩 山川出版社 広島県歴史散歩研究会 1992年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 |
宮島町の町並 |
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宮島町の歴史民俗資料館 |
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