豊町は竹原市の南の瀬戸内海に浮かぶ大崎下島の大部分(東側)を占め、御手洗はその東端部に位置している。江戸時代初期までは人家もなく、近くの集落からの「出作」によって農耕地として開かれているに過ぎなかった。 江戸時代になり船が大型化し、航海技術が向上すると、瀬戸内の航路は陸地沿いの「地乗り」から内海中央部の最短距離を通る「沖乗り」が主流となった。そして御手洗の沖合いは潮まち、風待ちの港として注目されるようになった。御手洗の沖合いは風や潮流の影響を受けることが少なく、風待ち潮待ちの場所として最良の所であった。特に西廻り航路が発達し、内海に入った北前船はもちろんのこと、参勤交代の九州の諸大名の往来にも沖乗りがとられていた。 そこに目をつけた大長村の人たちは、停泊中の船に野菜、薪、飲料水などを売ることを始め、御手洗に移住する者も出てきた。そして広島藩から御手洗の耕地を屋敷地にすることを許されたのが寛文6年(1666)のこと、港町御手洗の始まりである。 藩は御手洗にいろいろな保護や助成を行い、諸国の廻船を相手に米、豆類、綿、茶、雑貨などを中心とする交易も行われるようになり、小規模ながら問屋業も生まれた。 また、御手洗には九州や四国の大名が参勤交代のときに寄港することも多く「船宿」を指定した藩もあった。 当初大長村の枝村としてスタートしたが、正徳3年(1713)には町年寄役が置かれ、文化5年(1808)には町庄屋が置かれ、完全に大長村から独立した村となった。 宝永4年()には航海安全・商売繁栄の神として、恵比須神社が建てかえられ、文政12年には大坂商人で広島藩の蔵元である鴻池家の寄進によって住吉神社が建立され、同年殖産興業政策の一環として、大規模な波止を築造され、港の拡充を図ってきた。 港町として栄えるにつれて、亨保〜宝暦頃(1716〜1764)には若蛭子屋など4軒の茶屋が公認され、芝居興行や富くじも許可された。港町として栄えていたころ、茶屋とともに、船員相手に遊女の「船後家」の商売も行われていた。 遊女らは小舟で船に乗りつけ、船員をねぎらい、衣服の洗濯やつくろいなど主婦としてのつとめを果たしていたので、船後家とよばれたが、のちに「オチョロ舟」と呼ばれるようになった。多分「お女郎舟」のことだろう。 公認された茶屋は若蛭子屋の他に堺屋、富士屋、海老屋の4軒であった。今でも若蛭子屋は残っていて県の指定史跡になっており、現在は豊町の御手洗会館として使われている。若蛭子屋は遊女100人余りを抱え、御手洗で最も繁盛していた茶屋であった。 この若蛭子屋あたりが、御手洗を代表する古い町並みの景観である。 町並みは江戸時代から明治、大正、昭和の初めに建てられた建物が続き、本瓦葺で切り妻または入り母屋造り、白漆喰塗り込めの虫籠窓、平入りが多いが、天神地区には切り妻造り又は入り母屋造りの妻入りの民家が連なる地域がある。そして平成6年に御手洗地区が国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。 御手洗は明治・大正から昭和にかけて、海から陸へと交通の大動脈が移り、次第に人が、歴史が離れ、気づかぬうちに町がチルド保存され、そのままの姿で時を経て平成の今に伝える。赤い大きな懐中時計を吊り下げた時計屋さん。戦前のものと思われる「国定教科書取次販賣所」と書かれた木の看板がショーウインドウの横にぶら下がっていたりして、町を歩けば、江戸時代から昭和初期までに建てられた建物が連なり、路地の向こうには青い海が見える。 広島県の歴史散歩 山川出版社 広島県歴史散歩研究会 1992年 歴史の町並み事典 東京堂出版 吉田桂二 1995年 山陽・山陰小さな町小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 1999年 みたらい大図解御手洗ガイドブック 豊町教育委員会 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 |
御手洗天神の町並み |
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天神の町並み |
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七卿館(県史跡) |