美保関町美保関の町並み 
美保関
地図


美保関(青石畳通り)の町並
 美保関は民謡「関の五本松節」で知られている。「ハー関の五本松、一本切りゃ四本、あとは切られぬ夫婦松」と歌われた地である。
古代より、海上交通の重要な地であり、今に残る行事や伝説で伺うことが出来る。中世になり承久3年(1221)には、承久の乱で敗れた後鳥羽上皇が、元弘2年(1332)には、元弘の乱で敗北した後醍醐天皇も讃岐への遠流で、美保関から讃岐へ赴いている。
美保関は中世にも朝鮮・九州・北陸方面の通商船の寄港地として日本海の要港であったので、室町幕府はここに関所を設けて勘過税を徴収した。そのため戦国期になると、この莫大な税を巡って当地では紛争が絶えず、山陰・山陽を領した尼子氏も、応仁2年(1468)に美保関港を支配下に入れ、多額な関銭を手中にして、経済力を増強した。
永禄9年(1566)に尼子氏が滅び、文禄5年(1596)に富田城主となった吉川広家は、文禄の役で焼けた美保神社を造営し、町を整備したので、また各地の船が出入りし港町として繁栄を見るようになった。
江戸時代になり、元禄期(1688〜1704)以降商品流通が盛んになり、西廻り航路が整備された。その際正式には寄港地に加えられていないが、内海と外海の中間点にあり、俵物の積出港ということもあり重視された。松江藩も幕府からの預地讃岐国への渡航地として保護した。
西廻り航路から外れてはいたが帆船による地乗りで、日本海沿岸航路の要港として活況を呈した。若狭・但馬・武蔵などの遠隔地からも船がきて、多くの商人が集まった。船問屋の数は元禄9年(1696)38、宝永6年(1709)30、文化10年(1813)38、嘉永3年(1850)42であった。
美保関の江戸期は松江藩領で、宝暦年間(1751〜64)成立と思われる「雲陽大数録」によると僅か2石の石高だったが、天保9年(1838)の「出雲国領知郷村高辻帳」によると石高が記載されていない。港としてのみ機能していたと推測できる。
警備の施設として馬着山には遠見番所、境には御番所、幕末には加鼻に台場が置かれた。文政12年(1829)には為替方が置かれ、松江藩の海上経済に重要な役割をもった。天保2年(1831)には鯨方も設置された。そして明治3年には通商司が置かれ、山陰商業の振興地として多くの商人が出入りした。
しかし通商司の廃止、為替方の廃止、捕鯨業の衰退、対岸の境港が米子への道路を整備したこと、明治28年讃岐航路が美保関に代って境港を起点とするようになり、明治45年には大社ー京都間に山陰線が開通しことなどにより、鳥取県境港に経済的地位を奪われ衰退していった。
今、海岸沿いは埋め立てられて、道路などが完備されたが、その裏側には、昔のままの細い路地のような道路が海岸と平行に続いている。その道路の一部は美保神社の入口鳥居近くで青石畳通り称され、旅館や旧船問屋の屋敷などが軒を連ねていた。
歴史から見ると、漁港や港町特有の細い路地に家が重なって建った町並と、船問屋の大きな屋敷の入り混じった町並の筈だが、ここ美保関では全く港町の様相であった。すれ違いも難しいような道路がメイン道路で、その道路沿いに八百屋さんや魚屋さんが店を並べていた。
町並保存には積極的なようで、青石畳通りでは、各家屋号が大きく玄関に表示されていて、主だった家では、家の屋号と一緒にその家の謂れなどの説明がされていた。
古い家は江戸時代後期の建築だろうが、殆どは明治に入ってから建てられたようで、港町の様相だが、建て方などは旅籠や問屋といった家が混在し、特異な町並の形態であった。
町並み指数 60
参考文献     
  島根県の歴史散歩  山川出版社  島根県の歴史散歩編集委員会  1995年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和54年
  島根県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1995年
  

美保関の町並(かってのメイン道路)

美保関の町並(かってのメイン道路)

美保関の町並(かってのメイン道路)

美保関の町並(かってのメイン道路)

美保関(青石畳通り)の町並
(かってのメイン道路)

美保関(青石畳通り)の町並
(かってのメイン道路)

美保関(青石畳通り)の町並
(かってのメイン道路)

美保関の町並(かってのメイン道路)
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