瀬戸内海沿岸の三原市街と竹原市街の中間位に位置する。能地は古くは忠海村(現竹原市)に属していたが、明暦2年(1656)に分村したと「豊田郡志」に記載されている。 能地村の江戸時代は初め広島藩領。寛永9年(1632)から享保5年(1720)までは三次支藩領でその後再び広島藩領のまま明治に至る。 「芸藩通志」には畝数100町4反余り・高804.59石とあり、家数370・人数2,931。牛95・船280とあり、漁業従事者が4割を占めていた。天保12年(1841)には家数443・人数3,292で干鰯問屋・縮緬ざこ問屋各2軒とある。 畑岡川河口部の埋め立ては江戸末期で、主として河口の東側であるり、それまでは今の安芸幸崎駅の北の山裾近くまでが海岸で、地乗り航路の風待ち港・漁港として繁栄していたので、漁業従事者も多かった。 今回訪ねたのは幸崎町能地の畑岡川河口西部の旧街道沿いの町並みである。海岸線に沿って湾曲した道である。海岸から近い位置で湾曲した道になっているので埋め立ても少なかったのだろう。 切妻造り平入りで、中2階・2階建ての建物である。見応えのある重厚な商家の建物が連続して建っている姿は、古い町並みとしては一級品である。久しぶりで中2階建てで軒の揃った町並みを見た感じだ。只町並みの海側に大きな白赤のクレーンをあげた造船所が在ったのはマイナス要因ですが、それを差し引いても満足した町並み探訪だった。 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 |
幸崎町能地の町並 |
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