松江市宍道町宍道は宍道湖畔の宿場町であり、江戸期を通じて松江藩領であった。 宍道が江戸時代に宿場町として大いに発展したのは、交通の要衝であったからである。宍道湖岸を通る山陰道と、雲南三郡(飯石・仁多・大原各郡)からの物資集散と人の往来する地となり、街道沿いに町並みが形成され、宿場町として発展したものである。特に宍道湖を利用した海運の盛行は顕著なものであった。3軒の本陣宿と元禄12年(1699)の宿屋4軒、舟32艘の記録がこれを示している。同年の家数161・人数775であり、寛延2年(1749)には家数280・人数1,002に増えている。文化10年(1813)の天文方御用手鑑によると家数249・人数1,137とあり、文久2年(1862)の意宇郡村有高輪切帳では家数350・人数1,423とある。 近代にはいっても交通の要衝としての役割は大きく、海陸共に栄え明治10年代には宍道湖航路に汽船が就航し、明治42年には山陰線(現JR山陰線)宍道駅が開設された。 明治28年宍道村で交通運輸に関係するものは、人力車10台・荷馬車3台・客馬車1台・荷車15台・伝渡船7・平田舟5・旅人宿14軒・問屋荷宿(運送業)5軒・沖仕17人であり、これは町内家数数約300軒のうち25%にものぼるものであった。 また宍道村内で山陰道沿いに町並みが発達したところは宍道町と呼ばれた宿場町の部分だ。町の西端から南へ出雲備後道が分岐していた。街道の分岐点という立地条件から宿駅として栄え、宍道湖を利用した舟運の要衝でもあった。 小豆沢家・木幡家・葉山家の3家が本陣を務めた。宍道町だけを見ると元禄12年(1699)には家数71軒で、文久2年(1862)には87軒となっている。町の長さは200間、街道幅は4間とあり、その幅は今にそのまま残っている。嘉永2年(1849)の記録では街道を挟んで山側に40軒・湖側に42軒が描かれている。 今に残る本陣の遺構は木幡家本陣で、八雲本陣(国重文)と呼ばれ、今は料理旅館として営業されているが、見学だけでも可能です。享保18年(1733)建築の主屋を主体に見学できる。建物は町並みの中でもひときわ目立つ白漆喰塗の白壁で囲まれている。 只この宍道の町並みの中で、伝統的な様式の建物はこの木幡本陣以外は少なく、古い町並みとしてはチョット寂しい町並みである。 でも、旧街道に沿って展開する町並みは古い町並みと感じる。個々の建物は特別古くはないが、平入り2階建ての建物が続く町並みからは、宿場町当時の雰囲気が漂ってくるのがやはり伝統なのだろうと思う。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 島根県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 島根県の歴史散歩 山川出版社 島根県の歴史散歩編集委員会 1995年 |
宍道町宍道の町並 |
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