松江市島根町加賀は島根県の島根半島の北端、松江市街から北約10km、日本海に臨んだ所に位置する。大きく入り込んだ良港を持つ半農半漁集落で船問屋や廻船問屋も多い湊町でもあった。 江戸時代は松江藩領。 万治2年(1659)の検地帳によると、屋敷数49で、御役目屋敷数41。寛政4年(1792)の島根郡西組村々方差出帳では高510石余、小物成は塩浜役・子塩辛役・鯖松役・鯖釣役・糠藁畳菰役などがあり、中でも船役として銀163匁もあった。船が76艘あり、うち伝渡船1・伝馬船72・トモド船3・家数288(うち本百姓62・名子・間脇226)・人数1,261・牛63とある。 中でも寛文12年(1672)西回り航路が開かれると、風待のため入港する湊となり賑わうようになった。 江戸時代中頃から明治末までの船宿・船問屋の数は32〜36軒を数えている。初めは船持の船問屋は無かったが、船を持って海運業に取り組む者も現れ、寛政期から明治末までには船持の家が28軒、船の数も34、5艘余りあった。 運んだ品は江戸末期の記録では、砂鉄・煙草・昆布・銅・塗椀・干鰯・生蝋・瓦・粒綿等であった。 農業を主にした所であったが、漁業も盛んで、幕府財政を支えた長崎俵物(イリナマコ・ホシアワビ・フカヒレの高級3品)の出荷地であり、対清貿易品として長崎で売買されていた。 港の繁栄は陸上交通が発達する明治中期まで続いていた。 今町並みを歩くと、漁師町・港町としての名残が多く残っている。港から続く小さな水路に沿って、大きな屋敷に重厚な家屋を持つ豪邸が幾つも見られる。港に停泊する大型船から小舟に移し替えられた貨物がこの水路を通って商家の土蔵に納められてたのでしょう。漁港としての漁師らしき家屋の町並みも見られ、商港・漁港として栄えていた当時の町並みが残っている集落であった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 島根県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
島根町加賀の町並 |
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